《小野梓=士族から平民》
「明治14年の政変」大隈重信一派が挑んだもの
姜範錫=元駐日韓国公使:平成3年

「明治14年の政変」大隈重信一派が挑んだもの
平成3年(1991)10月25日発行
朝日新聞社

姜範錫(カン・ボムソク)
1934年中国丹東生まれ。
早稲田大学政治経済学部卆。
法学博士(大阪市立大学)。
大阪市立大学客員教授。
元駐日韓国公使。
〔主な著書〕
『Xの日本論』(ソウル・教保文庫)
『征韓論政変』(サイマル出版会)

(30)p265
  小野の「自伝志料」は、
  明治二年一一月から翌三年春までの間に
  「他家に養子に往く体にて……
  遂に平人とは成りにき。」
(三一二頁)
  と記している。
  しかし、アメリカで私費留学中であった小野を
  大蔵省の官費留学生にするための、
  明治七年一月一七日付
  大蔵卿大隈重信名義
  「当省留学生ノ儀ニ付申上」

  (国立公文書館所蔵『明治十四年公文録』)には
  「高知県士族小野梓儀」と出ている。
  小野は平民を宣言したが法律上では
  明治七年一月現在なお
  士族身分は維持されていたのであろうか。
1「明治14年の政変」
「当省留学生ノ儀ニ付申上」
 ―略―
私費ヲ以留學罷在候
高知縣士族小野梓儀…
2「明治14年の政変」
 明治七年一月十七日 大藏卿 

[件名 英国私費留学生小野梓ヲ造幣寮官費生徒トス]
 明治七年一月十七日
私費生小野梓ヲ造幣寮生徒トナシ
長松修藏ニ換フ
 大蔵省上申
 ―略―
彼地私費ヲ以留學罷在候
高知縣士族小野梓儀才學モ有…
 ―略―
3「明治14年の政変」
『国立公文書館・デジタルアーカイブ』より


blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[本官勘合帳 外国官一号]原本:壬申1号 千邨五郎~壬申57号 山澤静吾
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2188470.html
壬申 第五十五号 米 小野梓 申二十歳 ※明治5年現在
           高知県 貫属 平民
   壬申二月十四日   ※明治5年2月14日:1872年3月22日
   八年一月七日 返納 ※明治8年1月 7日:1875年1月7日
https://livedoor.blogimg.jp/kazuo1947/imgs/8/5/85f1e66f.jpg


blog[小野一雄のルーツ]改訂版[航海人明細鑑3]原本:p010~p019
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2188474.html
小野梓 高知県 貫属 平民
留学  壬申二月   ※明治5年2月:1872年3月
八年一月七日 返納  ※明治8年1月 7日:1875年1月7日
廿一         ※明治六年現在
https://livedoor.blogimg.jp/kazuo1947/imgs/f/4/f4050d09.jpg

[舎人学校]
大学生と高校生の父親の“教育論”
2005年7月14日 (木)
『明治14年の政変』姜範錫
「近代日本と大隈重信」という観点から、
明治の元勲・大隈重信の足跡を振り返ってみた場合、
明治14年の政変を取り上げないわけにはいかないでしょう。
何故なら、
明治14年の政変は大隈が深く関与していたからという理由だけではなく、
その後の日本の運命を大きく左右した事件だったからです。
そこで本日は、1年前にIBDのウェブ誌に載せた書評を一部公開します。
書評の対象となった本は、
元駐日韓国公使で大阪市立大学客員教授だった
姜範錫氏が著した、
『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』(朝日選書)
という本です。
 ―略―
〔追記〕
ここで、『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』を通じて得た
筆者なりの明治14年の政変観を述べるとすれば、
次のようなことがいえよう。
すなわち、明治14年の政変は、
単に大隈重信とその一派が政界から追放されたという
性質の事件だけではなしに、
政治形態としてイギリスをモデルにした
「君民共治」という立憲君主制を構想していた
大久保利通の遺志を継ぐ
大隈重信およびその一派の追放を意味していたのであり、
ここに大久保が構想していた「君民共治」、
即ちイギリス型政党政治が
日本に根付く機会を奪い去った一大痛恨事が
明治14年の政変であったといえよう。
そして、その後の歴史が物語っているように、
明治14年の政変を境に日本はプロシア精神に基づく絶対主義と、
その絶対主義を支える軍隊、官僚制、
皇国教育等が盛んになっていくのであり、
その御破算が1945年8月15日だったということになる。
歴史に「もし」は禁物であろうが、
もし大久保・大隈のイギリス路線が明治の日本に敷かれていたら、
今日見る日本はまったく違った国になっていたのではあるまいか。
※追記:平成29年5月23日 小野一雄

ところで、もう一点、
『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』を
読みすすめていく中で目から鱗が落ちる思いをしたのは、
例の大隈奏書
(明治14年3月に大隈重信が
左大臣有栖川宮に提出した憲法に関する意見書)の
起草者についてであり、
筆者は通説通りに福沢諭吉の弟子であった
矢野文雄の手による起草とばかり思っていたが、
実は小野梓の思想が色濃く刻まれた奏書であることを
『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』によって知り、
ここにも世の中の通説を鵜呑みにすることの
危険性を痛切に思い知らされたのである。
ここで、何故今日に至っても
大隈奏書は矢野文雄の起草であるという通説が
罷り通っているのかと云えば、
71歳だった矢野自身が『大隈侯昔日譚』に
以下のような文章を遺しているからだ。
さる著書に、当時大隈さんから岩倉さんに差し出したと云う、
立憲制度樹立の意見書なるものがのっていた。
それを読んで見ると、
たぶん福沢先生が書いたものであろうとしてあるが、
これは福沢先生の文章ではない。
わが輩が書いたもののようである。
『大隈侯昔日譚』

「わが輩が書いたもののよう」など、
いかにも耄碌した老人の書き方である。
その証拠に、有栖川宮とすべきところを
岩倉と書き間違えている点などが挙げられよう。
ともあれ、通説になっている
「大隈奏書の起草者=矢野文雄」という図式は間違った説であり、
正しくは「大隈奏書の起草者=小野梓」
という説であることを理解して初めて、
明治14年の政変の全容が掴めるのである。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/07/post_a6bb.html