《愛知英語學校:坪内逍遥》
【名古屋藩学校と愛知英語学校】3/4
【名古屋藩学校と愛知英語学校:附・坪内逍遥博士のことども】
昭和10年7月1日発行
英語學校を記述するに當り、 p19/30
忘れ難きは郷土の生むだ
坪内老博士に思ひを走らせなければならぬ、
博士は七十七年昔の
安政六年五月廿二日、 ※安政6年5月22日(1859年6月22日)
美濃太田、代官所(尾州領)で呱々の聲を揚げられた、
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/19
―略―
博士の父君は平之進、 p20/30
代官所の手代(代官の次席)であつた、
初代坪内平右衞門は
濃州牧田村御料所生れにて
小牧代(官)手代
文化十年死、 ※文化10年(1813)
是れ曽祖父也
二代坪内平右衞門(祖父)は
初め
磯村仁久左衞門組足輕中間
後
小牧代官手代
又
鵜多須代官手代
後
太田代官手代
嘉永七年死、 ※嘉永7年(1854)
自分の父平右衞門は小牧に生れたれど
早く太田に移りしよし
他は不明の如くに候(坪内博士來書)
(續尾北郷土資料寫眞集)
博士の父は維新後、
其樂(註一二)と改め ※(註一二)p27/30
數年前迄あつた
名古屋市電気局の南、
當時の
愛知郡那古野村大字廣井字上笹島十八番屋敷
に隠退して、
悠々自適の生涯を送られた。
今の鈴木信義博士の家である、
以前は中村に通ずる清正公道なるものがあり、
先年道路改修で大分様子も變化したが、
其樂翁の時は平家(ひらや)と思ふ、
母堂は當時の春日井郡大曽根村
矢野藤兵衞五女ミチ、
文政四年生れ、 ※文政4年(1821)
此里方は以前は酒問屋で
昭和三年春逝かれた ※昭和3年(1928)
平兵衞さんは博士が
竹馬の友の息子と云ふ。
母堂は大の劇通であり、
其家は資産もあり舊家であつた、
嘗て尾州侯が御忍びで遊びに
來られたと云ふ傳説もある、
通人で産を傾けた人や
俳人二道も出して居る。
二道は松浦羽洲の執筆をなし、
後ち立机して宗匠となつた、
博士は環境や芝居好きの母堂の影響で
自然に草艸紙趣味があつた。
後年博士が戯曲家となられたのも
演劇通であられたのも
無理ならぬわけである。
勇藏さんの通つた、
巾下の寺子屋、
それは當時有名な書家
柳澤維賢の孫に當る
孝之助氏、
漢學の白水學校は
和泉町吹原氏の西隣にあつた
増田春邇郎氏經營のそれで、
尚繪畫を
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/20
當時日置に住してゐた p21/30
四條派の喜田華堂畫伯に學ばれた。
先生の出世作「書生気質」の挿繪原圖を
先年
長原孝太郎畫伯
(故人、東京美術學校教授、
明治神宮繪画館奉献陸海軍聯合大演習の武豊港筆者)
(註十三)の邸で拜見したが、 ※(註十三)p27/30
一寸素人ばなれのしたものだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/21
昭和十年六月廿五日印刷
昭和十年七月 一日發行
發行人 安藤次郎
名古屋市西區船入町壹丁目八番地
印刷人 三浦荒一
名古屋市中區小林町十二番地
印刷者 三浦印刷所
名古屋市中區小林町十二番地
電話 中(3)一五四五番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/28
【名古屋藩学校と愛知英語学校】3/4
【名古屋藩学校と愛知英語学校:附・坪内逍遥博士のことども】
昭和10年7月1日発行
英語學校を記述するに當り、 p19/30
忘れ難きは郷土の生むだ
坪内老博士に思ひを走らせなければならぬ、
博士は七十七年昔の
安政六年五月廿二日、 ※安政6年5月22日(1859年6月22日)
美濃太田、代官所(尾州領)で呱々の聲を揚げられた、
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/19
―略―
博士の父君は平之進、 p20/30
代官所の手代(代官の次席)であつた、
初代坪内平右衞門は
濃州牧田村御料所生れにて
小牧代(官)手代
文化十年死、 ※文化10年(1813)
是れ曽祖父也
二代坪内平右衞門(祖父)は
初め
磯村仁久左衞門組足輕中間
後
小牧代官手代
又
鵜多須代官手代
後
太田代官手代
嘉永七年死、 ※嘉永7年(1854)
自分の父平右衞門は小牧に生れたれど
早く太田に移りしよし
他は不明の如くに候(坪内博士來書)
(續尾北郷土資料寫眞集)
博士の父は維新後、
其樂(註一二)と改め ※(註一二)p27/30
數年前迄あつた
名古屋市電気局の南、
當時の
愛知郡那古野村大字廣井字上笹島十八番屋敷
に隠退して、
悠々自適の生涯を送られた。
今の鈴木信義博士の家である、
以前は中村に通ずる清正公道なるものがあり、
先年道路改修で大分様子も變化したが、
其樂翁の時は平家(ひらや)と思ふ、
母堂は當時の春日井郡大曽根村
矢野藤兵衞五女ミチ、
文政四年生れ、 ※文政4年(1821)
此里方は以前は酒問屋で
昭和三年春逝かれた ※昭和3年(1928)
平兵衞さんは博士が
竹馬の友の息子と云ふ。
母堂は大の劇通であり、
其家は資産もあり舊家であつた、
嘗て尾州侯が御忍びで遊びに
來られたと云ふ傳説もある、
通人で産を傾けた人や
俳人二道も出して居る。
二道は松浦羽洲の執筆をなし、
後ち立机して宗匠となつた、
博士は環境や芝居好きの母堂の影響で
自然に草艸紙趣味があつた。
後年博士が戯曲家となられたのも
演劇通であられたのも
無理ならぬわけである。
勇藏さんの通つた、
巾下の寺子屋、
それは當時有名な書家
柳澤維賢の孫に當る
孝之助氏、
漢學の白水學校は
和泉町吹原氏の西隣にあつた
増田春邇郎氏經營のそれで、
尚繪畫を
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/20
當時日置に住してゐた p21/30
四條派の喜田華堂畫伯に學ばれた。
先生の出世作「書生気質」の挿繪原圖を
先年
長原孝太郎畫伯
(故人、東京美術學校教授、
明治神宮繪画館奉献陸海軍聯合大演習の武豊港筆者)
(註十三)の邸で拜見したが、 ※(註十三)p27/30
一寸素人ばなれのしたものだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/21
昭和十年六月廿五日印刷
昭和十年七月 一日發行
發行人 安藤次郎
名古屋市西區船入町壹丁目八番地
印刷人 三浦荒一
名古屋市中區小林町十二番地
印刷者 三浦印刷所
名古屋市中區小林町十二番地
電話 中(3)一五四五番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/28
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』