《成美學校:愛知英語學校:坪内逍遥》
【名古屋藩学校と愛知英語学校】4/4
【名古屋藩学校と愛知英語学校:附・坪内逍遥博士のことども】
昭和10年7月1日発行
成美學校と藩學との關係は全く不案内に候 p21/30
但し公稱たりしは明かに
加藤(高明)氏が上級に在りし事
後年の傳聞に存するのみ、
成美學校にて
故野呂景義氏に英語の手ほどきを受け
故神田選吉君
丸山某氏等にも習ひ候、
下級生たりしうち
成美學校が休校となり、
どうした手續か知らず
愛知英語學校となり、
改めて入學せし次第ゆゑ、
上級の教師外國人などの事は知らずしまひに候、
愛知英語學校の校長吉川泰次(二)郎氏、
教師どころを勤めしは故小川?吉氏、 ※?=金+冉
ドクター、レーサム、
米人にて商人あがりのカイル氏など
其創設關係より主なる教師なりき、
其頃は至極うつかり少年なりしゆゑ
何事もよく取調べもせざりしこと
記憶の存すべきやうなく候
右は先年博士からの筆者への返書の一節、
實云へばうつかりものどころでなく、
勇藏さんは甚だ温良好學の少年として
早くも同窓生間に知られて居た。
先生が未だ髷をつけられて居たかは判然せぬが、
生徒の中には幾分まだ髷が殘つて居た者もある。
そして先生は義經袴と云ふ
へりに紫色の切れのあるものを着して居られた。
或る役人の息子は洋服に赤フランネルで
異彩を放つて居た、
他は勿論和服の時代である。
さて貸本屋「大惣」
それは江戸から八犬傳の馬琴が遊びに來る、
博士の所謂日本一であり、
最古の貸本屋で郷土文化に多大の寄與をなしたものだ。
私の少年時代には幾分
貸本(それも明治出版の)をして居た様に思ふ。
尤も經營者はもう變つて居て、
多分靜觀堂の親類の人。
博士は日曜の如きは辨當、座布團携帯で、
「大惣」の書庫に自由に陣取られたものだ。
番頭さんも御常連の勇藏さんには特別扱いひで、
悠々と萬巻の書冊裡に心ゆく許り渉猟せられた。
博士にとつても生涯忘れ難き少年時の樂しき追想ではあるし
壯年の頃さへ番頭さんの夢までよく見られたと云ふ。
之れ又一面には博士今日の大成も
一日にして成るものでない事を想ふ可きである。
云ふまでもない
笹島の自宅から田圃道を辿つて
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/21
片端の英語學校に通はれて居たが、
明治八年上京せられた。
此時に御手紙にある様に
勇を雄と改められた。 ※勇藏⇒雄藏
そして開成學校(今の帝大の前々身)に入學せられた頃には、
もう一かどの江戸文學通で、
地方出身の同窓生を驚かしたものだ。
その「大惣」も廢業して
藏書を東京へ賣却して仕舞つた(註十四) ※(註十四)p28/30
後年の平出文庫の散逸を見ても、
徒らに綜合大學必要の聲のみ高く、
而して郷土人の貴重な文献に對する
愛惜の足らぬを遺憾に思ふ。
話は又英語學校に戻るが、
毎月に月旦評と云ふ小報告が出た。
英文の一覧表を見ても
總ての標準を外國に仰いた時代だ。
此學校は急激な時代に中學生どころを
ウント英語専門で地理數學などやつたらしく、
今日から思へば確かに變則な話である。
生徒も各自目的を立てゝ
必ずしも卒業證書が唯一の希望でなかつた様子、
教師と生徒の交情は密なもので、
校長が上京する時など、
級長を呼んで留守中皆んなしつかり勉強する様、
君から云ふて呉れと云ふ様な親切があつた。
まだ私塾時代の「先生」に對する敬虔なあるものが
少年の頭にあつた時代である。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/22
昭和十年六月廿五日印刷
昭和十年七月 一日發行
發行人 安藤次郎
名古屋市西區船入町壹丁目八番地
印刷人 三浦荒一
名古屋市中區小林町十二番地
印刷者 三浦印刷所
名古屋市中區小林町十二番地
電話 中(3)一五四五番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/28
【名古屋藩学校と愛知英語学校】4/4
【名古屋藩学校と愛知英語学校:附・坪内逍遥博士のことども】
昭和10年7月1日発行
成美學校と藩學との關係は全く不案内に候 p21/30
但し公稱たりしは明かに
加藤(高明)氏が上級に在りし事
後年の傳聞に存するのみ、
成美學校にて
故野呂景義氏に英語の手ほどきを受け
故神田選吉君
丸山某氏等にも習ひ候、
下級生たりしうち
成美學校が休校となり、
どうした手續か知らず
愛知英語學校となり、
改めて入學せし次第ゆゑ、
上級の教師外國人などの事は知らずしまひに候、
愛知英語學校の校長吉川泰次(二)郎氏、
教師どころを勤めしは故小川?吉氏、 ※?=金+冉
ドクター、レーサム、
米人にて商人あがりのカイル氏など
其創設關係より主なる教師なりき、
其頃は至極うつかり少年なりしゆゑ
何事もよく取調べもせざりしこと
記憶の存すべきやうなく候
右は先年博士からの筆者への返書の一節、
實云へばうつかりものどころでなく、
勇藏さんは甚だ温良好學の少年として
早くも同窓生間に知られて居た。
先生が未だ髷をつけられて居たかは判然せぬが、
生徒の中には幾分まだ髷が殘つて居た者もある。
そして先生は義經袴と云ふ
へりに紫色の切れのあるものを着して居られた。
或る役人の息子は洋服に赤フランネルで
異彩を放つて居た、
他は勿論和服の時代である。
さて貸本屋「大惣」
それは江戸から八犬傳の馬琴が遊びに來る、
博士の所謂日本一であり、
最古の貸本屋で郷土文化に多大の寄與をなしたものだ。
私の少年時代には幾分
貸本(それも明治出版の)をして居た様に思ふ。
尤も經營者はもう變つて居て、
多分靜觀堂の親類の人。
博士は日曜の如きは辨當、座布團携帯で、
「大惣」の書庫に自由に陣取られたものだ。
番頭さんも御常連の勇藏さんには特別扱いひで、
悠々と萬巻の書冊裡に心ゆく許り渉猟せられた。
博士にとつても生涯忘れ難き少年時の樂しき追想ではあるし
壯年の頃さへ番頭さんの夢までよく見られたと云ふ。
之れ又一面には博士今日の大成も
一日にして成るものでない事を想ふ可きである。
云ふまでもない
笹島の自宅から田圃道を辿つて
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/21
片端の英語學校に通はれて居たが、
明治八年上京せられた。
此時に御手紙にある様に
勇を雄と改められた。 ※勇藏⇒雄藏
そして開成學校(今の帝大の前々身)に入學せられた頃には、
もう一かどの江戸文學通で、
地方出身の同窓生を驚かしたものだ。
その「大惣」も廢業して
藏書を東京へ賣却して仕舞つた(註十四) ※(註十四)p28/30
後年の平出文庫の散逸を見ても、
徒らに綜合大學必要の聲のみ高く、
而して郷土人の貴重な文献に對する
愛惜の足らぬを遺憾に思ふ。
話は又英語學校に戻るが、
毎月に月旦評と云ふ小報告が出た。
英文の一覧表を見ても
總ての標準を外國に仰いた時代だ。
此學校は急激な時代に中學生どころを
ウント英語専門で地理數學などやつたらしく、
今日から思へば確かに變則な話である。
生徒も各自目的を立てゝ
必ずしも卒業證書が唯一の希望でなかつた様子、
教師と生徒の交情は密なもので、
校長が上京する時など、
級長を呼んで留守中皆んなしつかり勉強する様、
君から云ふて呉れと云ふ様な親切があつた。
まだ私塾時代の「先生」に對する敬虔なあるものが
少年の頭にあつた時代である。
―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/22
昭和十年六月廿五日印刷
昭和十年七月 一日發行
發行人 安藤次郎
名古屋市西區船入町壹丁目八番地
印刷人 三浦荒一
名古屋市中區小林町十二番地
印刷者 三浦印刷所
名古屋市中區小林町十二番地
電話 中(3)一五四五番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077250/28
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』