《小川(金+冉)吉》《小川セン吉》
【日本現今人名辞典】明治33年
《小川(金+冉)吉》〔おがわ ぜんきち〕〔おがわ せんきち〕
【日本現今人名辞典】明治33年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780082/707
◎をがは、せんきち 《小川(金+冉)吉》 p178/711
君は東京府士族にして
安政二年十二月生る ※安政2年12月(1856年1月)
夙に岩崎彌太郎氏と共に ※岩崎彌之助の誤記
米國に航し大に海運の事業を視察せり
歸朝の後
文部省に出仕すること數年
明治十四年以來 ※明治14年(1881)
日本郵船會社に入り
横濱・長崎・大坂・神戸等の
各支店支配人となり
征清の役
起るに當り
君御用船の監督たり
二十八年 ※明治28年(1895)
歐洲航路準備の為め
英國に赴き倫敦支店支配人となり
翌年歸朝し ※明治29年(1896)
三十年より ※明治30年(1897)
常に本社にありて
現に同社船客課長たり
(東京市本所區横網町一ノ一九)
(電話 浪 九八二)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780082/178
【日本現今人名辞典】明治34年12月29日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782772/688
◎をがは、せんきち 《小川(金+冉)吉》 p188/699
君は日本郵船株式會社船客課長なり
舊名古屋藩士
安政二年十二月生る ※安政2年12月(1856年1月)
夙に藩黌明倫堂に學ぶ
明治三年 ※明治3年(1870)
永井久一郎氏等と共に
藩の貢進生として
東京遊學を命ぜられ
大學南校に入る
翌年 ※明治4年(1871)
其在學中更に藩命を以て
米國に留學し
「ラトガラス」大學に入り
同七年歸朝後 ※明治7年(1874)
文部省に出仕す
十四年以來 ※明治14年(1881)
郵便汽船三菱會社に入り
次て其支店支配人として
横濱、長崎、大阪、神戸等の各支店に歴勤す
十八年 ※明治18年(1885)
其社の共同運輸會社と合併して
日本郵船會社と改稱するや
君尚前職に在り
爾來勤續す
二十七八年の役 ※明治27年(1894):日清戦争
君御用船の總監督として斡旋
最も力め
轉送上能く遺憾なからしむ後
功を以て
勳六等に叙し
單光旭日章を賜はる
廿八年 ※明治28年(1895)
歐洲航路開通準備として
英國に赴き
倫敦支店支配人となり
經營畫策其効を卒へ兼て
佛蘭西其他諸國の海運實况を視察し
翌年歸朝す ※明治29年(1896)
三十年以降 ※明治30年(1897)
本社詰となり
方今其船客課長たり
(東京市本所區横網町一ノ一九)
(電話 浪 九八二)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782772/188
【日本現今人名辞典】明治36年2月14日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/796
◎をがは、せんきち 《小川(金+冉)吉》 p175/802
※上記、明治34年12月29日発行と
記載事項同一の為、省略。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/175
【日本現今人名辞典】明治33年
《小川(金+冉)吉》〔おがわ ぜんきち〕〔おがわ せんきち〕
【日本現今人名辞典】明治33年9月30日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780082/707
◎をがは、せんきち 《小川(金+冉)吉》 p178/711
君は東京府士族にして
安政二年十二月生る ※安政2年12月(1856年1月)
夙に岩崎彌太郎氏と共に ※岩崎彌之助の誤記
米國に航し大に海運の事業を視察せり
歸朝の後
文部省に出仕すること數年
明治十四年以來 ※明治14年(1881)
日本郵船會社に入り
横濱・長崎・大坂・神戸等の
各支店支配人となり
征清の役
起るに當り
君御用船の監督たり
二十八年 ※明治28年(1895)
歐洲航路準備の為め
英國に赴き倫敦支店支配人となり
翌年歸朝し ※明治29年(1896)
三十年より ※明治30年(1897)
常に本社にありて
現に同社船客課長たり
(東京市本所區横網町一ノ一九)
(電話 浪 九八二)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780082/178
【日本現今人名辞典】明治34年12月29日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782772/688
◎をがは、せんきち 《小川(金+冉)吉》 p188/699
君は日本郵船株式會社船客課長なり
舊名古屋藩士
安政二年十二月生る ※安政2年12月(1856年1月)
夙に藩黌明倫堂に學ぶ
明治三年 ※明治3年(1870)
永井久一郎氏等と共に
藩の貢進生として
東京遊學を命ぜられ
大學南校に入る
翌年 ※明治4年(1871)
其在學中更に藩命を以て
米國に留學し
「ラトガラス」大學に入り
同七年歸朝後 ※明治7年(1874)
文部省に出仕す
十四年以來 ※明治14年(1881)
郵便汽船三菱會社に入り
次て其支店支配人として
横濱、長崎、大阪、神戸等の各支店に歴勤す
十八年 ※明治18年(1885)
其社の共同運輸會社と合併して
日本郵船會社と改稱するや
君尚前職に在り
爾來勤續す
二十七八年の役 ※明治27年(1894):日清戦争
君御用船の總監督として斡旋
最も力め
轉送上能く遺憾なからしむ後
功を以て
勳六等に叙し
單光旭日章を賜はる
廿八年 ※明治28年(1895)
歐洲航路開通準備として
英國に赴き
倫敦支店支配人となり
經營畫策其効を卒へ兼て
佛蘭西其他諸國の海運實况を視察し
翌年歸朝す ※明治29年(1896)
三十年以降 ※明治30年(1897)
本社詰となり
方今其船客課長たり
(東京市本所區横網町一ノ一九)
(電話 浪 九八二)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782772/188
【日本現今人名辞典】明治36年2月14日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/796
◎をがは、せんきち 《小川(金+冉)吉》 p175/802
※上記、明治34年12月29日発行と
記載事項同一の為、省略。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782773/175
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』