[女子美術學校長 藤田文藏]【因伯立志人物】大正4年

【因伯立志人物】大正4年
[女子美術學校長 藤田文藏] p23/51
女子美術學校長として盡しつゝある
藤田文藏は舊鳥取藩士であつて、
文久二年(1862)
因幡國岩美郡の生れである、
幼少の時から美術思想に富み、
頗る彫刻を好んでゐた。

偶々東京の某校で、
外國から彫刻の敎師を迎へて
之を授けると聞き、
上京して此處に入り
一意專心其技を磨いたのであります。

明治十五年(1882)六月
卒業して出たのでありますが、
當時は未だ我國の事情は
泰西の美術を解する程の度に進んで
ゐなかつたのでありますから、
彫型の業で以て世に立つことは困難でありました。

そこで文藏は靑年女子の敎育に身を投じ
或は基督敎の傳道に力を致し
傍ら其技術を磨いてゐたのであります。

此間殆ど二十箇年間。

明治三十三年に至つて
文藏の技術は社會に認められて
美術學校の敎授に推され、
其名が世に高くなつた。

それから文藏は、
女子美術學校を設立して
多年婦人社會が要求してゐた
希望を充すことゝなり、
今日ますます熱心に
女子美術敎育に盡してゐるのです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/911014/23
大正四年七月二十八日印刷
大正四年八月  二日發行
正價 拾五錢
鳥取佛敎靑年會編纂
代表者 岩田勝市
    鳥取市立川町一丁目六拾參番屋敷
發行者 横山敬次郎
    鳥取市上魚町四拾五番地
印刷者 岡村豊次郎
    鳥取市西町百三十一番地
活版所 岡村活版所
    鳥取市西町百三十一番地
發行所 横山書店
    鳥取市大工町筋
    振替 大阪四二六八番
    電話 三〇九番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/911014/41

【浅井忠:画集及評伝】昭和4年
[工部美術學校生徒と十一字會同人] p68/155
工學寮に附屬する所の
工部美術學校なるものが創設されたのは
明治九年(一八七六年)の十一月であつた。
 ―略―
「明治九年十一月六日
 工部美術學校ヲ創設シ、本校ニ屬ス。
 其學科ハ畫學、彫刻ノ二科
 (畫學ハ畫法及油畫ヲ敎ヘ、
  彫刻學ハ石膏ヲ以テ
  各種物形ヲ模造スル等ノ諸術ヲ敎ユ)トシ、
 伊人三名ヲ徴傭シテ敎師ト爲シ、
 其校則ヲ選定シテ之ヲ頒布ス。
 二十五日美術學科中
 彫刻生徒ニ限リ、
 官費ヲ以テ就學セシムルモノトシ、
  ―略―」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186440/68
伊太利から招聘された敎師は
フオンタネージ(繪畫)
ラグーザ(彫刻)
カペレツチ(豫科)
の三人であつたが、
フオンタネージを首班として居た。 p69/155
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186440/69
「十二月十四日
 美術學校規則中ニ女子ノ入校ヲ許シ、
 又男女共毎週間、月、水、金ノ三日
 通學ヲ許ス等ノ數條ヲ追加シ之ヲ頒布ス」。
とあるのを見ると、
通學は毎日でなく、
隔日であつたらしい。
兎に角
明治初年に官立學校に於て
男女の共學が行はれて居たのは
面白いことである。

女生には大鳥雛子、岡村政子
中島待乳の妻となつた秋保某や
神中糸子と云ふ樣な人達が居た。

大鳥雛子は當時工作局長であり、
又工部大學校の事務を總理し、
美術學校長をも兼ねて居た
大鳥圭介の女であつた。  p70/155
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186440/70
昭和四年十月廿九日印刷
昭和四年十一月五日發行
定價 金七圓
著作者    石井柏亭
       東京府日暮里町字日暮里一〇三五番地
發行者    合名會社 芸艸堂出版部
       京都市中京區寺町通二條南入十八番戸
圖版 印刷者 田中松太郎
       東京府荏原郡大崎桐ケ谷五八二番地
本文 印刷者 一噌連
       東京市芝區兼房町十五番地
發行所    合名會社 芸艸堂
       東京市本郷區湯島一丁目
       電話 下谷 三六〇〇番
       振替 東京四〇九四〇番
       京都市寺町通二條南
       電話 上 二九〇番
       振替 大阪二五八番
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【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
 

[女子美術大学]
1900年10月 (明治33)
私立女子美術学校設立の許可を受ける
発起人 横井玉子、藤田文蔵、谷口鉄太郎、田中晋
http://www.joshibi.ac.jp/about/development