《手島物齋:橋本鹽巖の兄》
《橋本鹽巖》【下毛郡誌】昭和2年

【下毛郡誌】昭和2年7月20日納本
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/462
《手島物齋》 p373/466
手島物齋は中津藩の儒官なり、
名は柯、字は子柯、通稱仁太郎、
後 物齋と改め大島と號す、
その學舎を誠求堂と云ふ、
山川東林の門に出づ、
幼時弟鹽巖と共に櫻町の天神堂に學ぶ、
嘗て側なる老松に落雷あり
人皆驚き奔る、
東林乃ち人に命じて曰く、
手島兄弟
恐らくば讀書に耽り
知らざる如くならん、
汝到り檢せよ、
二人行いて之を窺へば
果して机に凭り
誦讀に餘念なかりきと、
其の勉學概ね
斯くの如し、
而して其の學
最も經書に精し、

進修館の教授となる、
物齋
文久二年閏八月二十二日 ※1862年10月15日
病んで家に歿す、
享年五十一、
安養寺に葬る、
弟鹽巖に祭物齋先生文あり。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/373
《橋本鹽巖》 p373-374/466
橋本鹽巖は手島物齋の弟なり、
鹽巖は其の號
後以て通稱とす、
出でて橋本氏を嗣ぎ
其の姓を冒す
早く兄
物齋と共に山川東林に從ひ學ぶ、
又熊府に遊ぶ、
既にして業就り中津に歸り、
進修館の教授に任ぜらる、
廢藩後
鹽巖自ら誠求堂を再興す、
從遊の門人甚だ多し、
明治五年(1872)一月
片端中學校成る、
鹽巖乃ち
白石常人 ※白石照山
大久保麑山の二儒と
共に入つて教授となる、
明治八年(1875)十一月
更に養成校の教授となり、

市學校の授業をも兼務せり、
其の間塾生をも教養すること
終始一日の如し、
明治十五年(1882)五月十五日
病んで家に歿す、
享年六十七歳、
鹽巖長身赭顔頗る威容あり、
性最も謹嚴剛直なり、
常に詩賦文章を以て末技となし、
專ら窮經譜史を尚び、
實用を以て主となす、
故に塾規には
詩會を毎月初四、十四、二十四の三日に、
文會を初九、十九、二十九の三日に限りたり、
鹽巖漢書を耽讀し
竟に數巻を抄冩し、
大に人を驚かしたる事ありと云ふ、
其の著書には
鹽巖書牘鹽巖雜文及
鹽巖後集あり。
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/373
《白石照山》 p374/466
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/374
《大久保麑山》 p375/466
 ―略―
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189329/375

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>63《教之:大久保麑山》~66《四男 季吉》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-2.html
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇