《二豐學寮主 山田小太郎:扇城學舎》
【大分県人士録】大正3年

【大分県人士録】大正3年4月4日発行
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/288
《二豐學寮主 山田小太郎》 p89-90/291
 東京本郷區千駄木町六二
 安政六年九月七日生 ※1859年10月2日
◎方今學生の東都に遊ぶもの、
 徒に學資を浪費し、
 華奢婬靡の風習に、
 感染するもの頗る多し、
 其原因多々あるべしと雖も、
 放縦なる下宿屋生活、
 亦其一因たるや疑ふべからず、
 氏は此惡現象に對する救濟策として、
 一方に於ては、
 大分縣出身學生の團欒に資し、
 他方に於ては、
 其切磋に裨せんが爲め、
 二豐學寮なるものを設け、
 今や其収容學生(大分縣出身者のみ)
 六十餘名の多きに達せり。
◎氏は大分縣下毛郡中津の人、
 幼少より學を好みたるも、
 學ぶに師なく、
 又修むるに系統なし、
 只だ鞏固なる意思のままに、
 獨學刻苦、
 專ら實力の養成に努めたり。
◎かくて明治十四年より
 郡立中學校、
 福岡縣蘆屋中學校に敎鞭を執り、
 後私財を投じて、
 私立扇城學舎を設け、
 更に中津英語數學講習會を組織して、
 之が經營に任じ、
 明治二十二年
 私立豐州學館長に轉ぜり。
◎明治二十六年
 大分中學校敎諭に任ぜられ、
 爾來同校に敎鞭を執る事十年、
 明治三十六年五月
 同校を辭して上京、
 明治四十年
 韓國興農會社より聘せられて、 ※下記:別府三穂三郎
 榮山浦出張所農務監督となり、
 留る事二年にして、
 再び東京に歸り、
 舊門同志に移檄して、
 前記二豐學寮てふ
 理想的寄宿舎を創設し、
 以て今日に至れり。
◎氏爲人、
 温厚にして素朴、
 育英と讀書とを以て生命とし、
 終生獨身、
 迎妻せざるは珍とすべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/89
[豐後灣の遠泳]  p90/291
明治三十二年の盛夏、
大分縣立大分中學校生徒は、
豐後灣に遠泳を試みたるが、
菡萏港より日出湊迄、
十二浬の海上を泳着せるものは、
只僅に山田先生と、
生徒 後藤文夫(現任 靑森縣警察部長)
生徒 高倉菫太郎の二健兒のみなりき。
[編者曰く]     p90/291
氏は大正二年十月
我大分縣出身
鈴木恒三郎氏の經營下にある
日光精銅所に入り
坑夫等と伍して
其德性修養に任ずる事となれり、
然れ共
二豐學寮は依然として
氏の手によりて存續せられつゝあり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965/90

【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年06月24日(日)
別府三穂三郎[韓国興農株式会社]
【日本全国諸会社役員録】明治40-42年
[韓国興農株式会社]
取締役 別府三穂三郎 下毛郡中津町
http://blog.livedoor.jp/kazuo1947/archives/2257833.html

[広池千九郎博士と西洋]川窪啓資
《山田小太郎》  p3/20
明治十八年(一八八五)
「二月中より、中津堀川
 山田小太郎氏につき
 英語を大勉強せり」とある。
(10) 山田小太郎の名は『中津歴史』にある。 p19/20
   またこの人は後年、当時の地名で
   朝鮮全羅南道栄山浦にいたとある。
http://rc.moralogy.jp/wp-content/uploads/1988/09/25kawakubo.pdf
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HP[小野一雄のルーツ]
<大久保系圖>75《三男 慎二》
http://www.ktb.zaq.ne.jp/gfajc605/b01-03-5.html
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