[川崎造船所 専務取締役 松村守一]
【興亜日本の事業家】昭和14年
【興亜日本の事業家】昭和14年
本邦造船界一方の雄 p23/98
株式會社 川崎造船所
專務取締役 松村守一氏
川崎造船、川崎汽船、川崎車輌
その他の重役として、
天性非凡の經營的才腕をふるひ、
時局産業界の花形として、
多大の貢献をなしつゝある
松村守一氏は、
島根縣の人
松村康重氏の三男にして、
明治四十年の神戸高商出身である。
第一銀行にはいつた氏は、
漸次に頭角をあらはして重用せられ、
神戸副支配人から各支店支配人に榮進
その卓越した金融手腕を謳はれたものであるが、
のち、當社に移り頭書の如く、
確固不動の地位を築くに至つたのである。
當社は、明治二十九年(1896)十月、
二百萬圓の資本を以て創立せられた
本邦造船界の古豪にして、
明治三十五年(1902)四百萬圓に、
明治三十九年(1906)一千萬圓に
大正五年(1916)二千萬圓に、
大正八年(1919)四千五百萬圓に、
大正十年九千萬圓にと
增資に次ぐ增資を以てして、
發展向上の一途を辿つて來たのであるが、
のち、悲境に沈淪することあり、
昭和七年(1932)十一月、
五株を一株に合併して、
一千八百萬圓に減資して普通株とした。
昭和八年(1933)一月、
六千二百萬圓を優先株として增資し、
八千萬圓の尨大なる資本のもとに、
着々業績をあげ、
その造船臺數七臺、
造船能力十五萬噸に達し、
又製鈑工場の能力は、
厚鈑十五萬瓲、
薄鈑二十萬瓲、
鑄鋼及鐡一萬五千瓲、
鋼塊三萬瓲、
鍛鋼一萬瓲、
鋼板用平鋼二十五萬瓲、
同製鋼四十五萬瓲に上る規模を
誇つてゐるのである。
(以上何れも事變直前の
昭和十二年(1937)五月現在能力)
時局以來、當社艦船工場は、
軍需用は勿論のこと、
民間船舶をも含めて
文字通りの大繁忙を極めてをり、
またその子會社たる
川崎航空機の大躍進を遂げて、
兩々相俟つて時局に多大の貢献を
なしつゝあるのである。
而して、事業の興廢は、
もとより時の力によること大であるが、
また、これを運營する
いはゆる經營者の才腕如何によること大である。
當社が、この時局に際して、
かくも目醒ましい活躍をなし、
時局の要求に缺くるところ
なからしめつゝあるのは、
一に經營の重衝に當る
重役諸公の傑れた手腕によるのである。
わが松村專務の經營手腕の卓越したることについては、
世上に定評があり、
こゝに繰り返していふまでもないが、
その胸中には烈々たる愛國の熱情が燃えてゐるのであり、
當社の社是たる造船報國の赤誠のもとに、
只管業務の發展向上につとめてゐるのである。
氏は人となり圓滿にして重厚、
敎養のきはめて高き人格者である。
財界の某巨頭は、氏を評して、
「商才士魂の典型的事業家である」
といつたといふが、まさに適評である。
これはもとより
天性の才質の傑れたるによるもので
あることはいふまでもないが、
玉も磨かざれば光りを放たざるが如く、
この天稟の才質が、
かく迄に發揮されるに至つたのは、
一に、氏の不斷の努力修養のたまものに
ほかならないのである。
氏は、後身の指導誘掖と
いふことについても
一家の見識を持ち、
有用の人材と見れば、
ことが眞價を發揚せしめる爲に
如何なる助力をも惜しまないが、
彼らを導くにあたつても
つねに努力修養の必要なるを説き、
いたづらに他力依存に陥ることを
いましめてゐる。
氏にしてこの言あり
まことに味ひ深き言である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278794/23
昭和十四年二月二十三日印刷
昭和十四年二月二十六日發行
定價 五圓
編纂兼發行人 中村睦男
東京市日本橋區茅場町二ノ十三
印刷人 濱野東峯
東京市澁谷區代々木初臺町五四二
印刷所 濱野印刷所
東京市澁谷區代々木初臺町五四二
發行所 中央經濟情報社
東京市日本橋區茅場町二ノ十三
電話 茅場町(66)
一四四三番 一四四四番 一六九七番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278794/95
【興亜日本の事業家】昭和14年
【興亜日本の事業家】昭和14年
本邦造船界一方の雄 p23/98
株式會社 川崎造船所
專務取締役 松村守一氏
川崎造船、川崎汽船、川崎車輌
その他の重役として、
天性非凡の經營的才腕をふるひ、
時局産業界の花形として、
多大の貢献をなしつゝある
松村守一氏は、
島根縣の人
松村康重氏の三男にして、
明治四十年の神戸高商出身である。
第一銀行にはいつた氏は、
漸次に頭角をあらはして重用せられ、
神戸副支配人から各支店支配人に榮進
その卓越した金融手腕を謳はれたものであるが、
のち、當社に移り頭書の如く、
確固不動の地位を築くに至つたのである。
當社は、明治二十九年(1896)十月、
二百萬圓の資本を以て創立せられた
本邦造船界の古豪にして、
明治三十五年(1902)四百萬圓に、
明治三十九年(1906)一千萬圓に
大正五年(1916)二千萬圓に、
大正八年(1919)四千五百萬圓に、
大正十年九千萬圓にと
增資に次ぐ增資を以てして、
發展向上の一途を辿つて來たのであるが、
のち、悲境に沈淪することあり、
昭和七年(1932)十一月、
五株を一株に合併して、
一千八百萬圓に減資して普通株とした。
昭和八年(1933)一月、
六千二百萬圓を優先株として增資し、
八千萬圓の尨大なる資本のもとに、
着々業績をあげ、
その造船臺數七臺、
造船能力十五萬噸に達し、
又製鈑工場の能力は、
厚鈑十五萬瓲、
薄鈑二十萬瓲、
鑄鋼及鐡一萬五千瓲、
鋼塊三萬瓲、
鍛鋼一萬瓲、
鋼板用平鋼二十五萬瓲、
同製鋼四十五萬瓲に上る規模を
誇つてゐるのである。
(以上何れも事變直前の
昭和十二年(1937)五月現在能力)
時局以來、當社艦船工場は、
軍需用は勿論のこと、
民間船舶をも含めて
文字通りの大繁忙を極めてをり、
またその子會社たる
川崎航空機の大躍進を遂げて、
兩々相俟つて時局に多大の貢献を
なしつゝあるのである。
而して、事業の興廢は、
もとより時の力によること大であるが、
また、これを運營する
いはゆる經營者の才腕如何によること大である。
當社が、この時局に際して、
かくも目醒ましい活躍をなし、
時局の要求に缺くるところ
なからしめつゝあるのは、
一に經營の重衝に當る
重役諸公の傑れた手腕によるのである。
わが松村專務の經營手腕の卓越したることについては、
世上に定評があり、
こゝに繰り返していふまでもないが、
その胸中には烈々たる愛國の熱情が燃えてゐるのであり、
當社の社是たる造船報國の赤誠のもとに、
只管業務の發展向上につとめてゐるのである。
氏は人となり圓滿にして重厚、
敎養のきはめて高き人格者である。
財界の某巨頭は、氏を評して、
「商才士魂の典型的事業家である」
といつたといふが、まさに適評である。
これはもとより
天性の才質の傑れたるによるもので
あることはいふまでもないが、
玉も磨かざれば光りを放たざるが如く、
この天稟の才質が、
かく迄に發揮されるに至つたのは、
一に、氏の不斷の努力修養のたまものに
ほかならないのである。
氏は、後身の指導誘掖と
いふことについても
一家の見識を持ち、
有用の人材と見れば、
ことが眞價を發揚せしめる爲に
如何なる助力をも惜しまないが、
彼らを導くにあたつても
つねに努力修養の必要なるを説き、
いたづらに他力依存に陥ることを
いましめてゐる。
氏にしてこの言あり
まことに味ひ深き言である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278794/23
昭和十四年二月二十三日印刷
昭和十四年二月二十六日發行
定價 五圓
編纂兼發行人 中村睦男
東京市日本橋區茅場町二ノ十三
印刷人 濱野東峯
東京市澁谷區代々木初臺町五四二
印刷所 濱野印刷所
東京市澁谷區代々木初臺町五四二
發行所 中央經濟情報社
東京市日本橋區茅場町二ノ十三
電話 茅場町(66)
一四四三番 一四四四番 一六九七番
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278794/95
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』