小野梓氏の書簡は、宮司の石黒俊鬯氏の発信に対する返事【三代回顧録】松村謙三 著

【三代回顧録】松村謙三

p1【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p1【三代回顧録】松村謙三 著

p2【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p2【三代回顧録】松村謙三 著

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〔画像〕p3【三代回顧録】松村謙三 著

 二 憲法誤記で切腹さわぎ
   ―略―
 ところで恩師、山本先生は皇室に対しては非常に崇敬の念を抱かれ、
こといやしくも皇室のことになるとえりを正されたものであったが、
同時に藩閥に対しては非常に憎悪の感を持っていた。
このために薩長閥に対抗する大隈重信
その人に絶大の尊敬を払っていたのである。
私を早稲田大学に遊学させることは、
当時の郷里のふんい気としてはなかなか困難なことであり、
父、祖父も非常にためらっていたが、
山本先生が賛成の意を表して父に説いて上京に尽力してくれたのも、
そういう心持ちからだと思われる。

 このような次第で私の郷里は政治思想の発達が割合に早く、
大隈重信の改進党が組織されると直ちにこれに応じて
いわゆる民党側に属したようである。
その実例として、
郷里の神社の宮司をしていた石黒俊鬯という人が、
政治に興味をもち
同志とともに富山県改進党の組織に奔走したものとみえて
小野梓氏からの手紙が残っている。
小野氏は早稲田大学創立者の一人であり、
改進党創立の主要人物で
大隈総理(当時は党首を“総理”という)を助けて
幹事長をつとめた人である。
p6-7【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p6-7【三代回顧録】松村謙三 著

 小野梓氏の書簡は、宮司の石黒氏の発信に対する返事で、
その内容はどういうことかといえば、
「君方同志の努力で富山県に改進党をつくってくれるそうで
 まことに感謝にたえない。
 ついてはその名称のつけ方を聞いてよこされたが、
 それは改進党富山県支部というような名称は適当でない。
 よろしく富山県立憲改進党とつけてほしい」というので、
改進党幹事長小野梓と署名してある。
明治十四、五年ごろと推定して誤りない。
そのころから政党に熱中した人たちの意気が盛んだったとみえる。
富山県政党発達史の貴重な文献である。
 ―略―
[憲法発布当日の初版の官報号外]
 (井口安太郎氏所蔵)
その官報のなかに誤りがあった。
「朕、明治十四年十月十四日将ニ明治二十三年ヲ以テ
 之ヲ招集シ議会開会ノ時ヲ以テ……」
という勅語のなかに、その日を、二日、間違えたのである。
十二日が本当である。
これを明治天皇が、
官報と同様に百官の前で読まれたので大騒ぎとなった。
 ―略―
p8-9【三代回顧録】松村謙三 著
〔画像〕p8-9【三代回顧録】松村謙三 著

【官報. 1889年02月11日】明治22年
 p4-50【官報. 1889年02月11日】明治22年
〔画像〕p4-50【官報. 1889年02月11日】明治22年
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タイトル  三代回顧録
著 者   松村謙三 著
出版者   東洋経済新報社
出版年月日 1964
公開範囲 国立国会図書館/図書館送信参加館内公開
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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大日本帝国憲法 - 国立国会図書館
[大日本帝国憲法]
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ
朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ
朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ
其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ
又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ
明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ
 ―略―
御名御璽
明治二十二年二月十一日
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[石黒俊鬯]
 西洋の医学、日本の泰斗
佐藤尚中先生の顕彰碑
碑石の裏面(建碑寄付者、発起人、幹事氏名)
イ部 石黒俊鬯
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