朝鮮の志士朴泳孝、金玉均等九人、五郎兵衞の船に移り、日本に亡命せんとす
【天田・加佐・何鹿三郡人物誌】昭和2年
【天田・加佐・何鹿三郡人物誌】昭和2年
【天田・加佐・何鹿三郡人物誌】昭和2年
二 松尾五郎兵衛 (河東村) p21/77
松尾五郎兵衞は加佐郡河東村字千原の人、 ※京都府福知山市大江町
祖先は數代は大庄屋を勤めたり。
幼名を杢之助と呼び
弘化三年十月千原に生る。 ※1846年11月
◉五郎兵衞の朝鮮行 p22/77
明治十七年(1884)九月、
朝鮮政府は京都府勸業課に依頼し、
金玉均來朝蠶業開拓のため適當なる敎師の派遣を乞いふ。
府は直に五郎兵衞をして事に當らしむ。
五郎兵衞喜んで之を諾し、
行李萬端を調へ且つ三十萬本の苗木を用意し、
長崎より出船して彼の地へ赴けり。
折りしも朝鮮革命の變ありて、
着鮮二三日にして早くも退去せざるべからざることゝなり、
折角の企も遂に水泡に歸せしめたり。
五郎兵衞の倉皇として立去らんとするに當り、
朝鮮の志士朴泳孝、金玉均等九人、
五郎兵衞の船に移り、
日本に亡命せんとす。
快く之を諾し、
船中警戒と禮遇を怠らず長崎に着し、
爾來物情洶々たる中に於てよく志士等を保護し、
服装姓名を變じ旅費仕度を整へ
之を横濱に送り苦心惨憺至らざるなかりき。
ために志士をして難なきを得しめたりき。
昭和二年七月 十日印刷
昭和二年七月二十日發行 非賣品
發行所 天田 加佐 何鹿 三郡敎育會
編輯代表者 京都府何鹿郡口上林村
四方源太郎
印刷人 京都府加佐郡舞鶴町字本三五
松本彌藏
印刷所 京都府加佐郡舞鶴町字本三五
松本新進堂
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[金玉均の政治亡命と日本]大畑篤四郎
二 甲甲政変と金玉均の日本亡命 p6/19
金玉均によるクーデターは
明治一七年(一八八四)一二月四日に決行された。 p7/19
―略―
いずれにしても、切迫した状況の中で、 p8/19
金玉均等が自決を決意するに至った際に、
苦渋にみちた竹添の挙動とはうらはらに、
確乎とした態度をとったのは、 p9/19
千歳丸の辻(勝三郎)船長であった。
辻船長は、
「陸上の事は我之を知らず、
此の船舶の事皆我権内に在り、
諸君安んじて可なり」
「公等一旦此船に乗船せられた以上、
公等の進退は一に我掌中に在り、
公等安心せられよ」
として、引渡しを拒否し、
「重大国際問題」をもってするメンドルフ側の圧力に対しても、
船長権限を主張して譲らず、強制捜索を行なわせなかった。
こうして独立党の一行は千歳丸船底の荷物置場に、
密偵の船中混入を警戒して蟄居しつつ、
長崎に入港し、日本に亡命することとなった。
金玉均、朴泳孝、徐載弼、徐光範、李圭完、柳赫魯、
鄭蘭教、申應熙、邊樹の九名であるが、
―略―
[PDF]金玉均の政治亡命
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common...
なからぬ問題があり、後にみるように金玉均に対する日本政府の処遇は、
当初こそ引渡しに応じなかったが、
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇