創立當時の共立學校(明治七年一月撮影 佐野鼎氏 英語敎師フリーム氏)
【東京開成中学校校史資料】昭和11年
【東京開成中学校校史資料】昭和11年
〔右頁〕高橋是清
昭和六年本校創立六十周年記念として
揮毫寄贈せられたるもの
贈 東京開成中學校 高橋是清
昭和十年 八十二歳の記念撮影に
自署して本校へ寄贈せられたるもの
〔左頁〕p9-2に記載
創立當時の共立學校
(明治七年一月の撮影 二階左より五人目 佐野鼎氏
七人目 英語敎師フリーム氏)
〔右頁〕鎌倉地方遠足の圖(明治二十八年十一月)
〔左頁〕上
高橋是淸氏、鈴木知雄氏の幼年時代
(慶應三年米國にて撮影
向つて右 高橋是淸氏、左 鈴木知雄氏)
〔左頁〕下
校長時代の高橋是淸氏
(明治十八年撮影、右より 鈴木ちか氏、鈴木知雄氏
東京開成中學校々史資料
第一 共立學校
東京開成中學校の前身たる共立學校の創設は
明治四年の秋にして校名の「共立」とは
同志輩社を結びて共立す
より其名を撰定したるものなり。
校務を總轄する爲め社長を置き佐野鼎氏其任に當る
而して其同志とは佐野鼎氏、辻金五郎氏、茅野茂兵衛氏の三人なり。
學校は主として正則の英語を敎へ
兼ねて高等普通學を授くるを以て目的とせり。
佐野鼎氏は元靜岡の人なり當時洋學を修め殊に砲術、
航海術に熟達したるのを故に以て德川時代の末期人物の
登庸に急なりし加賀藩より招聘を受く
明治維新後は小石川造兵司之頭に任ぜらる
造兵司とは現時陸軍造兵廠の前身なり
福井某氏は當時陸軍の醫官にして蘭學を研究し
外科に堪能なり
夙に英語の必要を覺りて自宅に塾を開き
陸軍御傭敎師「フリーム」を招聘して
塾生に英語を敎授し居り
塾は九段坂上靖國神社馬場の中■城■に面するの所なり
―略―
新校舎竣工するに及び福井塾より
英語敎師「フリーム」並に塾生全部を此處に移轉せしめ
尚新入學
生徒の多數を収容し茲に學校の組織完成し
基礎全く鞏固となれり。
明治五年三月初めて共立學校規則を制定す。
―略―
明治十年夏東京地方にコレラ病流行し、
社長佐野鼎氏遂に其犠牲となられ逝去せらる、
齡四十二歳
寔に哀悼に堪へず。
學校は戰亂の餘波と社長の逝去とにより
一時非常なる悲境に陥り殆ど廢校同樣の狀態となれり。
此時茅野氏は如何にしてか之を挽回せんと欲し
種々畫策し遂に大學豫備門の敎授たる高橋是淸氏
(當時淡路町茅野氏宅に寄寓す)に交渉の結果
高橋氏の情誼により
茲に高橋是淸氏共立學校再興繼續經營することゝなれり。
―略―
此時迄に於ける各学科擔任敎師左の通りなり。
英語 フリーム
同 ヘーア
同 サイモンドソン
(同時に三人敎授せしに非ず。順次に勤務したるものなり)
―略―
昭和十一年十月廿七日印刷
昭和十一年十一月一日發行 非賣品
編輯兼 高橋貞之丞
發行人 東京市荒川區日暮里町九丁目
東京開成中學校内
印刷人 山本次郎
東京市京橋區京橋二ノ九
印刷所 共立印刷株式會社
東京市京橋區木挽町二ノ一
發行所 東京開成中學校
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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