「早竹虎吉:Haytaka Torakichite」軽業師竹沢万次の謎を追う
:深沢正雪記者・ニッケイ新聞BRASIL
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第16回=
幕末の軽業二名人が伯国に?
『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)
(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場=1911~1942年)』
(レジナルド・カルバーリョ著、09年、バイア連邦大学)には
次のように書かれている。
《「Haytaka Torakichite」は、
1854年に大阪で生まれ、 ※1854年(嘉永6年・安政1年)
12歳でロンドンに向かい、 ※1866年(慶應2年)
そこで「Frank Olimecha」と名乗るようになった。
欧州、米大陸を巡業して回り、
1888年に ※1888年(明治21年)
イギリス人道化師フランク・ブラウンと共にブラジルに到着。
ブラジルではマヌエル・ペリ、フレデリッコ・カルロ、
アフォンソ・スピネリ、ポデスタ、ホルメル、シグリらと共に働いた。
1909年に ※1909年(明治42年)
フランキは自らのサーカス団「オリメチャ」を創立し、
全伯を巡業した。子どもたちは素晴らしい芸人に育ち、
サーカス団を長い間支えた》
前節のルイス論文にあるように
フランキの渡伯が1883年(明治16年)で、
前述のようにペリ・サーカスに参加していたのであれば、謎が一つ解ける。
エスタード紙初の日本人軽業師広告、
1886年2月28日付で ※1886年(明治19年)
「ペリ・サーカス」(Circo Pery)の
「40の手のひら怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)」という演目は、
おそらくフランキ・オリメシャが披露したものだろう。
では、この「Haytaka Torakichite」とはいったい何者か――。
調べてみたら、とんでもない有名人、大物に突き当たった。
なんと〃幕末の軽業二名人〃と呼ばれた有名曲芸師に、
「早竹虎吉」(生年未詳―1868年2月8日、京都)がいたのだ。
※1868年2月8日(慶應4年1月15日)
歴史系総合誌「歴博」第118号によれば、
《早竹虎吉は、幕末最後を飾る見世物のスーパースターであった。
虎吉の一座は天保ごろより大阪を拠点として活躍をはじめ、
安政4(1857)年には江戸に進出、
さらに伊勢・宮島・徳島など全国を巡業して、その人気は一世を風靡した。
虎吉の得意としたのは〃曲差し〃と呼ばれる芸であった。
長い竹竿を肩や足で支えつつ、
その上部で子方が軽業や早替りなどの曲技を披露するというもので、
危うい芸を見事に演じきって喝采を浴びたのである》
そんなスーパースターがブラジルに移住していたことなど、
ありえるのだろうか…。
ウィキぺディア頁があるほどの有名人であり、それによれば、
虎吉は1867年8月24日、
※1867年8月24日(慶應3年7月25日)
一座約30人を率いてアメリカに渡航した。
ただし、サンフランシスコを振り出しに、
サクラメント、ニューヨークなど米国各地で興行し、
フィラデルフィアでの公演終了後、
突如体調を崩して1868年2月8日に心臓病で客死した。
※1868年2月8日(慶應4年1月15日)
その後、1874年に実弟が二代目早竹虎吉を襲名し、
※1874年(明治7年)
東京で大評判をとったとの記述があり、
二代目もブラジルに移住したとは考えにくい。
つまり、この「Haytaka Torakichite」
本人がブラジルに来たという話もまた、
「ブラジルの竹沢万次」同様に、どうも〃本家筋〃ではなさそうだ。
カルバーリョ論文では
「Torakiche Hayataka」本人がブラジルに来たことになっているが、
前節紹介したマルタ論文では
「フランキ・オリメシャ」はその〃子供〃になっていた。
後者の方がまだ整合性がありそうだ。(つづく、深沢正雪記者)
軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=
一世紀半も受け継がれる家=第17回
ブラジルの早竹虎吉も、竹沢万次同様、
同じ一座でやっていた〃近い筋〃のものが名乗っていた可能性が高い。
ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は
1854年(嘉永6年・安政1年)に
大阪で生まれたと伝承されているから、
1867年(慶應3年)に米国公演した時に座長なので、
13歳ではオカシイ。
年齢的には渡米時に早竹虎吉一座に参加した
子供芸人ではないかと思える。
それならば、渡伯時の1888年(明治21年)に34歳の働き盛りだ。
海外興行の生活を続けてブラジルまで流れ着き、
長い巡業生活を経て、ここに定住したと考えるのが妥当ではないか。
―略―
(つづく、深沢正雪記者)
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※下記6名:1872年(明治5年)時点 米国在留
※年齢:1869年(明治2年巳年)時点
第56号《八百吉》虎吉長男29歳 1869-29=1840(天保10年)
第57号《安次郎》虎吉次男17歳 1869-17=1852(嘉永5年)
第58号《市松》 虎吉三男14歳 1869-14=1855(安政2年)
第59号《とよ》 虎吉長女12歳 1869-12=1857(安政4年)
第62号《由松》 豊吉長男11歳 1869-11=1858(安政5年)
第66号《勝之助》
ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は
1854年(嘉永6年・安政1年)に
大阪で生まれたと伝承されているから、
1867年(慶應3年)に米国公演した時に座長なので、
13歳ではオカシイ。
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国立歴史民俗博物館
歴史系総合誌「歴博」第118号
連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
■サーカスの夜明け-軽業芸人の海外交流
早竹虎吉は、幕末最後を飾る見世物のスーパースターであった。
虎吉の一座は天保ごろより大坂を拠点として活躍をはじめ、
安政4(1857)年には江戸に進出、
さらに伊勢・宮島・徳島など全国を巡業して、
その人気は一世を風靡した。
虎吉の得意としたのは"曲差し"(きょくざし)と呼ばれる芸であった。
長い竹竿を肩や足で支えつつ、
その上部で子方が軽業や早替りなどの曲技を披露するというもので、
危うい芸を見事に演じきって喝采を浴びたのである(図1)。
―略―
一方、虎吉の一座をはじめ、
鉄割福松(かねわりふくまつ)一座(図3)、
鳥潟小三吉(とりかたこさんきち)一座(図4)など、
日本で人気を勝ち得た軽業芸人たちが、
時を同じくして競い合うようにして渡航した。
ちなみにこの間、ニューヨークでは、
この中の鉄割一座の人気若太夫と
帝国日本芸人一座の隅田川一座の女三味線弾き登宇(とう)とが
密会していたのがばれ、
鉄割一座が詫状を入れるという色恋沙汰も起き、
見世物史に興を添えている。
その後、ロンドンにて登宇と濱碇定吉との間に女子が誕生。
『ロンドン・タイムス』は、日本国外で誕生した初めての日本人、と報じた。
―略―
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