早竹虎吉(初代)ニューヨークで死亡・
慶応4年1月15日(1868年2月8日):見世物興行年表

見世物興行年表
明治1年
2014年01月03日
慶応四年/明治元年(1868年・戊辰)一
○一月十五日(西暦1868年2月8日)、
早竹虎吉がアメリカニューヨークで死亡。
(「内外新聞」/『日本人登場』)
「慶応四年戊辰五月 内外新聞・第七(七日毎に出版)
❍第四編に記せし軽業師寅吉が始末、
其慥(たしか)なる書面を抜粋して左に挙ぐ。
正月元日より興行せしに、二日、三日頃より寅吉発病して、
同十六日終ニ病死す。
※慶応4年1月15日(1868年2月8日)
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見世物興行年表
明治7年
2014年02月21日
明治7年(1874年・甲戌)一
○一月より、大阪難波新地溝の側にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(絵ビラより)

明治7年(1874年・甲戌)六
〈編者註〉
二代目虎吉は初代の実子、養子、兄弟、弟子の諸説があって一定しない。
ここでは弟(実弟か義弟かは不明)といっている。
上記省略文中に、二代目虎吉は「堂々タル六尺体躯ノ輩」とあり、
長身であったことが分かる。
 〈編者註〉二代目虎吉
〔画像〕〈編者註〉二代目虎吉
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見世物興行年表
明治8年
2014年02月28日
明治8年(1875年・乙亥)二
○一月九日より、東京神田五軒町九番地にて、
二代目早竹虎吉の軽業が再開される。

明治8年(1875年・乙亥)四
○五月七日より、東京両国回向院にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(「あけほの」5・7、5・14)
「大坂登りの軽業師二代目早竹寅吉早竹福太郎の両人、
両国回向院にて本日より前代未聞の大軽業を興行するよし。
前代未聞に当(あたる)か知れんといふことなり」(5・7)
〈編者註〉若太夫は早竹福太郎(八歳)。
演じたのは旗竿の曲(吹流し・鶯の谷渡り・大の字など)、行燈渡り、
蜘蛛の巣がらみ、獅子の子落しなどで、
ここでも初代虎吉の芸をそのまま演じ、好評を得ている。

明治8年(1875年・乙亥)六
○七月十六日、東京築地延遼館にて、外国人饗応のため、
早竹虎吉の軽業や太神楽を見せる。(郵便報知新聞7・15)
「明十六日、築地延遼館にて、外客を饗応せらるゝとて、
軽業師早竹虎吉始め太神楽などの諸芸人を召し、
御馳走の品々は精養軒へ命ぜられたりと。
河村海軍大輔も臨席の由なれば、
該客は多分英国副水師提督ライトル氏外数名なるべしといふ」
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見世物興行年表
明治15年
2014年04月18日
明治15年(1882年)三
○四月、京都四条北劇場にて、二代目早竹虎吉の軽業。
(西京新聞3・7、3・12、4・9)
「新京極で曩頃中ヨイサテと流行した軽業師竹沢万治は、
此度故人で有名なりし早竹虎吉の芸名を相続し
二代目早竹虎吉と改名したので、
近々に四条北側劇場にて名弘(なひろめ)初お目見[得]の
軽業及び初代虎吉が得芸(おはこ)の独楽曲を数々興行するとの
サア評判じや〳〵」(3・7)
「新京極で曩頃中々と(シカジカ)云第千四百九十六号に載せた
竹沢万治が二代目早竹虎吉と改名の一件は大間違だと
北側劇場の興行元とか勘定方とか結髪のある男や
脊高男杯が当社に来り
囂々然(がやがやぜん)蝶々乎(てふてふこ)として弁解には、
全く二代目早竹初代虎吉の弟福松が兄の芸名を相続して
此度興行するのですと云ひ
升から看客(みなさん)へ一寸」(3・12)
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見世物興行年表
明治17年
2014年05月02日
明治17年(1884年)三
○二月十四日より、大阪千日前にて、早竹(早綱)鯉之助安五郎の軽業。
(「此花新聞」2・16/朝日新聞2・15)
「軽業師の名人とまで聞えたる早竹虎吉は、先年洋行したるが、
彼地にて病死したる後、
同人の弟子早竹鯉之助同安五郎の両人は去る明治九年より英国に渡り、
同国にて名技の伝習を受け、遂に昨冬帰坂したるが、
一昨年[編者註:一昨日の誤記か]より南地千日前にて軽業の興行を始めたり。
其興行中、最も見物の膽を寒(ひや)したるものは、
索(つな)の上へ椅子を乗せ、其上にて種々の芸を為し、
又は自転車に乗て索を渡る等なり。寔に驚き入る計りとの評判」(此花)

「二三日前より千日前にて興行せる軽業師早綱鯉之助といふは、
一昨年米国人に雇込まれて彼国に航し、
處々興行して昨冬帰国せしものなるが、
航海中に覚えて来りし種々の奇芸を演ずるうちにも、
一條(ひとすじ)の索(なわ)を宙に引き、其上に椅子を置き、
之に腰をかけて遂に両脚を放し、
椅子の上にて自在に身(からだ)を運転すると。
又其索(なわ)の上を二枚歯の自転車にて渡るには頗る目新しく、
見るものをして覚えず喝采の声を発せしむるといふ。
人智の開達と共にかゝる遊技も追々奇巧に奇巧を加へて
世人の目を驚かすに至るも亦文明の余沢なり」(朝日)
〈編者註〉
自転車による綱渡りはすでに明治十五年七月、
横浜でフランス人ブロンドが演じているが、
日本人としては彼らが最初であろう。
この頃の日本では自転車そのものがまだ珍しく、
記事の文面通り外国で習得してきたことは間違いない。
この芸は大いに受けたと思われる。
なお早竹虎吉の弟子云々に関しては
「朝日」が早綱としていることなど、不確かな部分が多い。
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見世物興行年表
明治20年
2014年05月23日
明治20年(1887年)五
○六月一日より、大阪千日前東側の大小屋にて、三代目早竹虎吉の軽業。
(大阪日報5・29) 
「…(千日前)東側の大小屋手品、鞠、曲乗の跡へは、
桑港戻りの三代目早竹虎吉の軽業を出し(後略)」
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見世物興行年表
明治22年
2014年06月13日
明治22年(1889年)六
○七月二十五日より三十日間、東京日本橋区中洲町にて、
二代目早竹虎吉の軽業。
(郵便報知新聞7・24/東京朝日新聞8・14)
「先代の虎吉は、先年外国へまで渡航して軽業を興行し大に喝采を博したるが、
今度二代目の早竹虎吉久々にて上京し、
明二十五日より向ふ三十日間、中洲町に於て興行する筈なり。
同人は初代の形を其の儘大道具大仕掛けにて技倆を奮ひ、
此の興行を終りし上は直に外国に渡航して、
外人の耳目を驚かさんとの決心なりと」(郵便報知)

「昨今中洲にて興行中の早竹虎吉が軽業は自転車の針かね渡り、
鍋島猫騒動、猫の宙乗り其他佐倉惣吾等の曲芸を
大道具大仕懸にて見するよし」(東京朝日)

明治22年(1889年)八
「[広告]西洋大軽業興行 今回両国回向院境内に於て 
早竹虎吉三十三回に付 正午十二時開場同五時迄、
同六時開場同十一時限、晴雨共昼夜二回興行仕候 
最上等椅子付御一人前金三拾銭、上等同貮拾銭、中等同拾銭、下等同五銭。
 早竹一座」(東京朝日11・14)

「両国回向院にて興行中なる早竹虎吉の連中は、
本日と明日に掛け数万枚の切符を 諸人に与へ、
新発明の芸十八番を残ず演(し)て見せると」(東京朝日12・7)

「ことぶき座へ軽業師の早竹虎吉が俳優に成て出勤し、
葛の葉を一幕お目見え狂言に出すといふことは
前号に記載(かきのこせ)しが、
俳優連に於て早竹の出勤に苦情があり、
終に早竹は出勤せぬことになり、
夫ゆゑ葛の葉はおヂヤン」(東京朝日12・19)
〈編者註〉
初代早竹虎吉が死亡したのは慶応四年(明治元年)だから
三十三回忌はおかしい。
また初代の法要をしようとした虎吉初代の関係が、
兄弟なのか弟子なのか、いまだにはっきりしない。
さらには虎吉を名乗る人物が複数いた気配もある。
それはともかく、「二代目早竹虎吉」はこの年表にも多く登場し、
初代同様の大掛りな軽業を演じて、
日本各地で活躍し、好評を得ていることは事実である。
ところで、初代は国姓爺の虎の役で
尾上多見蔵と歌舞伎の舞台に上ったことは有名な話だが、
この虎吉にも葛の葉の話がきた。
しかし残念ながら昔気質な役者連中の横槍が入り、
オジャンになってしまった。
「文明開化」のかけ声はここまでは届かなかったようだ。
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