大阪の獨樂廻し早竹虎吉一座・ホルトガル人タロサ引率【高橋是清自伝】昭和11年
乘船コロラード號は
七月二十五日(慶應三年) ※1867年8月24日
朝六時に三發の號砲を合圖に桑港に向つて出帆した。
八月十八日(慶應三年) ※1867年9月15日
午前十一時漸く目指す桑港に到着
【高橋是清自伝】昭和11年
いよいよ故國出發 p33/423
慶應三年(十四歳)の春も早終りに近いころとなつて、
我々のアメリカ行きの御許しが出た。
勝小鹿、富田鐵之助、高木三郎の三氏には、
それぞれ藩から、
學校に入つて勉強出來るだけの手當をくれる事になつたが、
鈴木と私はまだ幼いので、
向ふで誰かに世話を賴まねばならぬと、
―略―
斯くて出立の準備を整へて待つて居る所、
七月二十三日(慶應三年)に至つてアメリカ船コロラード號が、
香港から横濱に入港して來た。
―略―
旅費を飮む
我らの乘船コロラード號は七月二十五日(慶應三年)
朝六時に三發の號砲を合圖に桑港に向つて出帆した。
此の船は今日から見れば實に小さい、
僅に六、七百トン足らずの外輪船であつた。
そのころ、アメリカ通ひの船は、毎月一回づつ
香港から上海、横濱を經由して桑港との間を往復してをつた。
盛んに、支那人が米國に移民する時代で、
その時も、澤山支那人が乘つてゐた。
―略―
船が横濱を出てから一週間ばかりの後であつた。
下等に乘つてゐる日本人船客は、
我々四人だけと思ひ込んでゐたら
まだぞくぞくと日本人がゐる。
皆船に暈(よ)つてゐるので顔を出さないから
何人ゐるか判らないが、
その中の通辯らしいのが圖らずも
私の横濱時代の先輩で名前は忘れたが、
上唇が少し裂けてゐたので
俗に三ツ口と仇名されたその人であつた。
それに聞くと、
この一行は大阪の獨樂廻し早竹虎吉一座で、
ホルトガル人タロサに引率されて
アメリカから歐洲に興行に赴く所であるといふ事であつた。
〔画像〕p36【高橋是清自伝】昭和11年
桑港の少年赤毛布
海路二十三日を費して八月十八日(慶應三年)
午前十一時漸く目指す桑港に到着した。
富田氏の一行は直ちに出迎への馬車に乘つて
桑港一流のホテル『リツクハウス』に行つて仕舞つた。
昭和十一年二月五日印刷 『高橋是淸自傳』奥附
昭和十一年二月九日發行 定價 一圓八十錢
著作權代表者 上塚 司
發 行 者 東京市京橋區京橋三ノ一
千倉 豐
印 刷 者 東京市神田區神保町三ノ二九
山縣 精一
發 行 所 東京・京橋 第一相互館
千倉書房
電話 京橋(56)三七一六・八一一五・二一八一
振替 東京九七八
三陽堂 靑野印刷所 製版
山縣製本印刷株式會社 印刷
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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[早竹虎吉]※初代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
早竹 虎吉(はやたけ とらきち、
生年未詳 - 慶応4年1月15日(1868年2月8日)は、
幕末期の曲芸師、軽業師である。京都生まれ。
慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、
虎吉は横浜を出発しアメリカに渡航した[6]。
その後、明治7年(1874年)に実弟が二代目早竹虎吉を襲名した[8]。
脚注
6.^ 同じ船には、後に内閣総理大臣となる高橋是清も乗船していたと伝わる
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