《野口正利議員》近代化・戦前の日本・江藤新平・憲法改正・ナチスドイツ
[京丹波町議会定例会]令和元年6月7日

[令和元年第2回京丹波町議会定例会(第2号)]
 令和元年 6月 7日(金)
 開 議 午 前 9 時 0 0 分

○2番(野口正利君) p51/70
 私は、明治150年で目が覚めまして、
同和地域にさせられて、
明治150年は祝えないというふうに主張しました。
 ―略―

 戊辰戦争から150年の間の大戦で、 p52/70
アメリカが日本の国を支配しているのは、
薩摩と長州の人間であることは、
情報として間違いなく知り得ているはずであります。
改めて、広島の原爆を見直しました。
広島県の隣が山口県で、長州であります。
その長州の犠牲になったのが広島であると解釈すれば、
結果、アメリカの戦略が戊辰戦争より続く長州の人間に
武器を売ることだったと解釈できると思います。

 近代化という文字、言葉の中で、
戦前の日本は人間の住めるような時代ではなかったことは、
江藤新平が物語っています。
今、憲法改正を前に、ナチスドイツに学ばなければいけない、
この言葉の整理と、
イラク戦争は間違いだった、
この整理だけはしておく責任があるはずであります。
 p52[令和元年第2回京丹波町議会定例会]
〔画像〕p52[令和元年第2回京丹波町議会定例会]
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[近代日本人の肖像]国立国会図書館
《江藤新平》えとう しんぺい
(1834〜1874)
職業・身分    政治家
出身地(現在)  佐賀県
生没年月日    天保5年2月9日〜明治7年4月13日
        (1834年3月18日〜1874年4月13日)
号・別称等    胤雄(たねお)南白(なんぱく)
解説
父は佐賀藩士。藩校弘道館に学ぶ。
尊王攘夷運動に加わり、その後開国論を唱える。
藩吏となるが文久2年(1862)脱藩し皇権回復の密奏を図り失敗、
藩から永蟄居を命ぜられる。
明治元年(1868)新政府成立後、徴士として出仕、江戸遷都を提唱。
文部大輔、左院副議長などを経て5年司法卿となり、
司法制度整備や民法制定などに尽力した。
6年参議となるが征韓論争に敗れて下野。
7年民撰議院設立建白書に署名。
同年帰郷後、征韓党の首領となり、
佐賀の乱を起こすが敗北し、処刑された。
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