快男児・小林徳一郎1/2[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記  弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
 アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
大野伴睦回想録-カバー
〔画像〕大野伴睦回想録-カバー

 第六章 忘れ得ぬ人々
   1 快男児・小林徳一郎  p133-140
 私の交遊録には、風変りな人物が多い。
小林徳一郎親分もその一人である。
彼は世にいう快男児で、北九州一帯の大親分だった。
気ッぷのいいことは天下無類、
大いに稼いでは、意気に感じると、大いに散じた男で、
いまのセチがらい世の中では、
見当たらないスケールの大きな愉快な男であった。

 私と彼との出会いは、昭和二年の田中内閣のころ、
書記官長だった鳩山先生からある朝、電話がかかった。
「今日、君に九州の小林徳一郎という快男子を紹介する。
 赤坂の宇佐美という料理屋で小林と昼食をとるから、
 君もぜひ来給え」
 指定の料亭に出かけると、
鳩山先生と小林さんはすでに雑談していた。
先生に型どおりの紹介をうけ、三人で昼食をとった。
食事のあい間、小林さんは私に
「先生、わたしは金があると東京へ散じにくるのです。
 東京は金を使うところで、稼ぐところとは思っておりません。
 今後とも、上京の折はぜひお近づきをお願い申し上げます」

 この日はそのまま別れたが、一ヵ月もすると、また上京してきた。
初対面のあいさつ通にさっそく、私のところへ電話をかけてきた。
「一ぱい飲むから、お付き合い願いたい」
こんな調子で、上京のたびに毎晩のように
赤坂、新橋の花柳界を飲み歩く。
すべて小林さんのごちそうだ。
最初のうちは、
大野伴睦回想録p132-133
〔画像〕大野伴睦回想録p132-133

えらく飲みっぷりのいい男だな、くらいの付き合いだったが、
次第に気が合って何時の間にか肝胆相照らす仲になった。

 昭和四年七月、田中内閣は議会を解散、
衆議院の総選挙が行われることになった。
小林さんは議会解散の報ですぐさま上京、
私に電話をかけてきた。
「立候補の門出を祝って赤坂で飲みましょう」
 その晩、二人は赤坂の「永楽」で派手に飲んだ。
宴会の最中に
「先生、選挙費用の一部に使って下さい」と、小切手をくれた。
酔眼朦朧としていたので
「ありがとう」と受け取って、ポケットにねじ込んだ。
このとき、ちらりと額面をみると、
数字の頭文字は「壱」となっている。
「ははァ、一千円もくれたな」ぐらいで、
確かめもせず杯に酒をついでもらった。

 翌朝、目が覚めると前夜もらった小切手を思い出した。
上着のポケットに手を入れると、なるほど紙片が入っている。
手にしてみて驚いた。
額面は壱千円に非ず、壱万円とある。
五円札一枚でゆっくり遊べた時代の一万円だ。
「これは見違えたかな」
宿酔いの目をこすって、もう一度ながめたがやはり
「壱万円也」である。
「なんと気前のいい男だろう」
私もいささかびっくりさせられた。

 この小林さん、自ら語る生い立ちは島根県邑智郡の出身で、
小学校もロクにでていない。
十三歳のとき、はやくも流浪の旅にでて、
流れ流れて北九州の炭鉱、田川市にたどりつき坑夫となった。

 そのせいか、彼は酔うと必ずこんな歌をうたいだす。
  七つか八つからカンテラ下げて
   坑内下りのサノ親のバチ
 二十歳のとき、小林組という請負業をはじめ、
持前の気ッぷのよさと度胸で、
たちまちのうちに押しも押されぬ親分になってしまった。

 その後、浅野セメントの工場建設を請負って、
これが当り五百万円ほどもうけた。
いまから四十年前の五百万円である。
これだけの金があれば一生遊んで暮らせる財産だが、
彼の旺盛な事業欲はこれに満足しないで、
次々と仕事をおこしていった。

 いわば、無学無産の身で一代にして財をなした立志伝中の男だが、
成金にありがちな思い上がったところもなく、
信仰心の厚い謙虚な人物であった。

 現在、熊本市花園町の本妙寺にコンクリート造りの仁王門が建っている。
この仁王門は小林さんの寄進だ。
そのいきさつは、明治二十八年六月二十三日、
小林さんは広島の親分・肥田利助氏と、
この本妙寺の門前で決闘をすることになった。
ことのおこりは前年、肥田氏の身内から彼が侮辱されて
肥田親分に談じ込んだが
「若僧のくせに」と相手にされなかった事件にある。

 この肥田親分は熱心な日蓮信者で、
毎年熊本市の本妙寺に参詣していた。
これを聞いた小林さんはドスを懐にして、乗り込んだのである。
境内に肥田親分を待ちうけ名乗りを上げて対決を迫ると肥田親分は、
お百度を踏むからそれが終るまで待てといったそうだ。
深夜に「南無妙法蓮華経」の声を張りあげ、
熱心にお参りしている親分の姿をみているうちに
小林さんはすっかり感激し、ケンカをする気がなくなった。
人を仲にたて手打ちをしたのだが、
このとき、日蓮信者になることを心に期した。

 聖域を血でけがさずにすんだのは、
ひとえに清正公の遺徳と、後年この仁王門を建てたわけだ。

 あるとき、二人で成田山にお参りした。
帰りに佐倉宗五郎を祭った宗吾堂にいくと、
小林さんは
「佐倉義民伝を読んだことがあるが、彼くらい偉い奴はいない」
といいながら、熱心におがんでいる。
そこには、宗吾堂の屋根修理のため、
瓦一枚二十銭で売っており、寄進を乞う立て札があった。
大野伴睦回想録p134-135
〔画像〕大野伴睦回想録p134-135

 この立て札の前にきた彼は、私をふりかえり
「二千枚も寄進しましょうか」
ポンと二千枚分の金を支払ってスタスタ歩いていく。
普通は参詣人が一枚、二枚と寄進しているのに、
二千枚という大量の寄進に坊さんはびっくり。
帰りがけた私たち一行に追いすがって
「どちら様ですか。全くご奇特なお方、どうぞお名前を教えて下さい」
「いやァ、あたしゃァ名無しの権兵衛ですよ。
 生まれたときは親はおらず、名前もつけてもらえなかったので――」

 大正の初めごろ、
島根県の名門、出雲大社の宮司千家氏が破産寸前になったことがある。
当時、男爵の千家尊福氏は東京府知事や司法大臣まで勤めた人だが、
名家の育ちで人柄がよく、
他人の手形のウラ判を引き受けて大損害を受け、家は没落してしまった。
そのおりの破産整理をやったのが、
原敬内閣で司法大臣を勤めた大木遠吉伯だった。

 このことを新聞で知った彼は、
手元にあった現金二十万円をカバンに詰め込み、車中の人となった。
小林さんは千家氏となんの関係もないのだが、
自分の故郷の名望家が金銭上のことで没落するのを、
持前の義侠心で黙っていられなかったのだろう。
東京駅からタクシーを拾い、芝の葺手町の大木邸にのりつけた。

 もちろん、大木伯とは一面識すらない。
玄関口で御前様に会いたいという風変りな男に、
執事は迷惑顔で追い帰そうとする。

「一体、御前様への用件とはどういうことですか」
「あたしァ名前を名乗るほどの男じゃァないが、
 九州の小林徳一郎というケチな野郎です。
 どうしても伯爵にお目にかかりたい。
 用件はお会いしなければ、申し上げられない。
 とにかく、とりついで欲しい」

 テコでも動かぬ様子に、執事もたじたじとなり、
大木伯にとりついだ。

「何の用件か知らないが、面白い男だ。
 ここへ通しなさい」

 大木伯の前に案内された小林さんは
「伯爵、千家さんには会ったこともなければ、見たこともないが、
 ただ縁あって出雲に生まれ、
 いま日本一の名門千家氏が没落されると聞いている。
 同郷の一人として黙っているわけにいかない。
 ここに二十万円の金があります。
 どうぞ負債整理の一部にお加え下さい」

 出雲出身というだけで、ポンと大金を投げ出したのだ。
さすがに豪胆な大木伯も驚き、かつ感激してしまった。
「小林君。お志し有難う」
手をとらんばかりに喜び、その場で大木伯は無名の土建屋と、
兄弟分の酒杯をかわしたのだった。

 以来、晩年まで両氏は非常に親しく交遊し、
大木伯の死ぬまで小林さんは上京のつど、
芝の屋敷を必ず訪ねていた。

 彼はさらに出雲大社に大鳥居を寄進している。
あるとき、二人で出雲に旅行したが、
出雲大社の彼に対する礼は最高で、
天皇陛下がいかれる一歩手前まで社殿参捧を許されるほどだった。

 千家氏を破産から救った彼は、さらに郷土の埋れた祠を、
いちはやく県社にもり上げてしまった。
八岐大蛇を退治した素戔嗚尊の妃になった稲田姫をまつった祠が、
仁多郡横田村というところにあった。

 村社にもなっていない無格社だったが、
一寄進で、おやしろを造り、神様の生活が困らぬように
山林や田畑までつけ、県社にしてしまった。
このときの費用も数十万円を下らない。
落成式に私も招かれたが、花火を打ち上げ、
近郷在所からの人出で、大変なお祭りだった。
大野伴睦回想録p136-137
〔画像〕大野伴睦回想録p136-137


昭和三九年二月二九日 新版初版発行
    定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
 本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
 営業所 東京都文京区西古川町一四
     電話(二六〇)〇四二一
     振替 東京 五三九〇九
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