快男児・小林徳一郎2/2[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年

大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記  弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
 アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
大野伴睦回想録-カバー
〔画像〕大野伴睦回想録-カバー

 第六章 忘れ得ぬ人々
   1 快男児・小林徳一郎  p133-140

 彼の寄進癖は神社仏閣だけでなく、学校にまで及んでいる。
法政大学で中国の漢籍を買うことにしたが、
本代十五万円がどうしても都合できない。
ときの総長は第三次桂内閣や寺内内閣で
司法大臣をつとめた松室致氏で、
この事情を小林さんに語ったところ
「それでは、私が寄附します」と、
無造作に十五万円の図書購入費をだした。
 松室氏は思わず「義書」だと、うなったそうだ。

 また、歌手の赤坂小梅を売り出したのも彼だった。
 昭和五年、小倉の花街にいた小梅を見出した彼は
「器量はそれほどでもないが、唄がすばらしい」と
小梅を東京に連れてきて赤坂からだした。

 この年は私が代議士に当選した年で、
この年の当選者だけで「昭五会」をつくっていた。
会員は林譲治や中島飛行機の中島知久平など。
金に不自由しない集まりなので、痛飲するのが常だった。
小林さんは小梅をこの会にひっぱってきて
「小梅を売り出したい。『昭五会』がP・Rをやってくれ」という。
 それからの「昭五会」の集まりには、
必ず小梅が呼ばれて宣伝大いに努めたものだ。
この間、久しぶりに小梅君に会ったら
「あの頃は、本当にお世話になりました」と、
しきりに懐しがっていた。

 その後、間もなく彼は朝鮮に渡り、炭鉱事業に着手した。
 北鮮の咸鏡鉄道で羅南に近く
明川(めいせん)駅と竜洞(りうどう)駅との中間に鉱区をもっていた。
この付近の石炭は明川炭といい、家庭燃料炭にはもってこいだったが、
何分にも駅まで牛車で運ばねばならないので、採算が合わない。

 そこで、なんとか鉱区近くに駅をつくりたいと、
私に助力を求めてきた。
 日ごろの飲み友達の願いごとだ。
早速、鳩山先生のところへ相談にいくと
先生は学友で朝鮮の鉄道局長大村卓一宛に
「ぜひ、力になって欲しい」と、紹介状を書いてくれた。

 朝鮮に渡り、大村局長を訪問すると、
下へもおかぬ丁重なもてなし。
が、肝心な駅の新設の方は、
クリスチャン局長の大村さんが事務的に処理するだけで、
いっこうに実現しない。
宴会戦術で頼み込もうとしても、
クリスチャンの大村さんは酒や女は一切ご免と、
とりつくしまもない。
こんな局長を相手にしていたのでは、ラチがあかない。
現場の課長クラスに目標を変えて、
連日連夜京城の花柳界に招待して宴会ずくめ。
いまでいえば”供応“になるのだが、
当時はのんびりした時代。
料亭の払いは小林さんが持つし、
どれくらい使っても結構だから、
万事お願いしますという。
余り派手に飲むので、
京城の花柳界では
「政友会の大野さんは、すばらしい金持ちだ」のうわさが飛ぶ。
いささか、くすぐったい感じだった。

 約六ヵ月ほどの“猛運動”の効果が実のり、
ついに駅が新設されることになった。
頼まれた役目も果したので、帰国の準備をしていると、
小林さんが「ヤマを見て帰って下さい」という。
案内されて明川のヤマへ行って驚いた。
ヤマでの彼の住いは、
夜になるとオオカミがでるというほどさびしい山中。
単身で泊って、
夜明けになると起きて入坑する坑夫の勤務ぶりをもとどける。

 花柳界で派手な宴会で騒いだり、
気前よくポンポン金を投げ出すように寄付している
小林さんしかみていなかった私は、
ここで大いに考えさせられた。
一業を成す人は、必ずかくれた努力の半面があるということ――。

 晩年の彼は、九州各地に赤字覚悟の干拓事業を引き受けたり、
育英会の設置に私財を投じるなどして
昭和三十一年一月三日、八十九歳で大往生を遂げた。

 死ぬ三年前、小倉市長とともに上京したのが、私
大野伴睦回想録p138-139
〔画像〕大野伴睦回想録p138-139

が会った最後だった。
このときは、ほかならぬ小林さんの頼みごとというので、
私たち同志が党に働きかけ、
十三億円の予算がたちまちのうちに計上された。
小林さんの人徳のたまものといえよう。
地元の小倉市では、林市長らが中心となって小倉郷土会の手で、
銅像と伝記編纂の計画が立てられ、
今年四月には銅像が完成して、
私もその除幕式に招かれた。

九州の重要産業の工事は、
八幡製鉄をはじめ大半が小林組の手で完成されており、
九州発展にも一役買っているわけで、
郷土の人たちが伝記を編纂したい気持も、ここにあるのだろう。
死んでから、めぼしい財産は見当らなかったほど、
世のために「寄付」してきた人だった。
いまどき、ちょっと存在しないスケールの人物であった。
こういう人こそ、快男児の名に値いするといってよかろう。
大野伴睦回想録p140-141
〔画像〕大野伴睦回想録p140-141

昭和三九年二月二九日 新版初版発行
    定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
 本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
 営業所 東京都文京区西古川町一四
     電話(二六〇)〇四二一
     振替 東京 五三九〇九
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