「御三家」(益谷秀次・林譲治・大野伴睦)の思い出
[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年
大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記 弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
第六章 忘れ得ぬ人々 p133
2 「御三家」の思い出 p140-143
どういうものか、私は旅先で、
親しい人の死去の知らせをきくことが多い。
緒方、三木、鳩山の三氏が亡くなったのも、遊説中で、
日程を打ち切り急いで帰京した。
「妙なめぐり合わせだ」
つね日ごろ、こう思っているためでもなかろうが、
またしても、親友林譲治君の死を大阪の出張先で聞いた。
あわてて、一切の予定を変更、日航機で東京にもどり、
同君の霊前にぬかずいた。
そのときの心境を一句したためた。
春の海 消えゆく土佐の 巨鯨(おおくじら)
私と林君、そして益谷君の三人は、
世間も「御三家」と呼んだほど三十数年来の友人であり、
飲み友達である。
年齢的には、益谷、林、私の順で一つずつ違っているが、
毎日の付き合いは兄弟のように「俺、お前」の間柄であった。
三人の中で、ほとんど病気らしい病気もせず
「僕が最後まで生き残るよ」
といっていた林君が、最初に他界してしまった。
数年前、私が高血圧で酒をひかえると、
林君がやってきて
「酒が飲めないとは気の毒だ。僕は毎晩飲んでいる。羨ましいだろう」
と冗談をいっていたことが、昨日のことのように思い出される。
人の命くらい、測り知れないものはない。
林君とは、昭和五年にお互が初当選して、
代議士になってから知り合った。
以来、政治行動はつねに一緒で、
北は樺太から南は鹿児島までともに遊説、
戦時中は仲よく翼賛選挙で落選している。
昨年は、永年勤続議員として二人が同時に衆院から表彰された。
彼が当選後、間もなく私が彼を鳩山先生に紹介し、
先生が文部大臣になられたとき秘書官に推薦した。
戦後は彼が議長を辞めるとき、
彼は吉田さんに後任の議長として私を推薦している。
ちょうど、二十七年八月の第三次内閣のこと。
そのころ私は吉田さんの鳩山先生に対する態度が気に入らず、
大いに憤慨していたので、
いまさら議長になれといっても
「俺はいやだ」と、
林、益谷両君のすすめを断わっていた。
ある日、この両君に料亭に招かれ再び議長就任を口説かれた。
「解散が近いのに、いまさら議長になれるか」
にべなく突っぱねると二人は
「そんなアホなことをいうな。
議長といえば議員の最高の地位だ。
ならぬ奴があるか」
それでもいやだというと、ついに林君は涙を流し
「お前、どうしてそんなに強情を張るのか。
吉田総理もその気持になっているのだぞ」
涙で攻められるのが、私には何よりつらい。
酔いも手伝って
「君らで勝手にしてくれ」と、いい残して席を立ってしまった。
翌日、衆議院で議長選挙が
あり、大野が承諾したということで私が選ばれてしまった。
ところが私が、議長に就任して三日目、
突如として吉田さんは国会を解散してしまった。
いわゆる「抜打ち解散」で、
短期間の議長とは承知していたが、
まさか三日坊主とは知らなかった。
当時大蔵大臣だった池田勇人、
郵政大臣の佐藤栄作、
外務大臣の岡崎勝男の三君が、
吉田さんとの間で秘かに仕組んだ作戦であった。
私や益谷、林の三人はつんぼ桟敷に置かれていたわけだ。
いよいよ選挙に入ると反対党はこのときとばかり
「三日議長」と私を野次る。
内心、吉田さんの仕打ちに腹も立ったが、
口にだすわけにはいかない。
そこで私は
「たとえ三日でも、一時間でも議長は議長だ。
君らは未来永劫に議長になれないだろう。
一輪咲いても花は花、一夜添っても妻は妻。
三日議長でも議長は議長だ」
と強がりをいって回ったが、
実のところバツが悪いことおびただしかった。
三人は、政治上のことではつねに助け合ってきたが、
酒席になると勝手放題。
とくに俳句では、林君に負けるものかとお互に競ったもの。
句会での点数は、どちらかといえば私の方が上で、
彼もしきりに残念がっていた。
二十六年ごろの選挙のとき、
私の選挙区に応援演説に来た林君が、私の郷里の家に一泊。
色紙に一句したためて帰った。
政治家を子に持つ親の古袷
その後、私が郷里に帰って、笑いながら母に
「あんな句を作られるようじゃ、よっぽど汚い袷を着とったのかい」
「わしァ一張羅の着物を着とったがな」
母も苦笑していた。
どちらかといえば、繊細な、いわゆる俳句らしい俳句を作る男だった。
三人のうちの年長者で、
酒席では兄貴格でいつも床の間を背にして坐っている益谷君は、
私が院外団時代の大正九年の原敬内閣の選挙で、代議士となった。
三十二、三歳の若さだった。
彼は石川県能登の素封家の生まれ、
若いころから風変りな痛快な人物だった。
郷里の中学でストライキをやって退学、
東京にでて開成中学を終え、外国に遊び、
京大の仏法科を卒業した。 ※別稿に記載
彼は「二番」で卒業したというが、
よく聞いてみると仏法科の生徒は総計で二人。
つまりビリッカスで卒業したらしい。
大学を卒えると、裁判官となり、
山口地方裁判所の判事をつとめた。
山口市での益谷判事は名裁判官の評判を博していた。
なるほど、彼の手にかかると大抵のものは無罪か執行猶予。
これでは人気がでるわけで、
「無罪判事」の異名をとった。
そのころから、酒を浴びるように飲み、
料理屋から裁判所に出勤するほどの豪の者だった。
その後、能登の実家の兄に金を出してもらい、
衆議院に当選して彼は、
当時の国勢院総裁小川平吉氏の秘書官となった。
私と彼との出会いは、このころだ。
秘書官になっても益谷君は、相変わらずお酒をのむと、
豪傑ぶりを発揮する。
小川総裁のお伴で北海道視察に出かけたが、
車中で酒に酔い総裁を
「おいペーキチ、ペーキチ」と呼びつけ、
小川総裁の手回り品は放っぽらかし。
どちらが秘書官かわからない一幕があった。
酒に関しては、人後に落ちない三人がいつも相寄って飲むのだから、
自然に心は結ばれ政治上でも同じ行動をとり、
のちに「御三家」といわれるまでの間柄になったのも、当り前といえる。
しかし、この三人の政治上の行動は、吉田内閣の初期が絶頂で、
党内を押えていたが、
私が吉田さんと疎遠になるにつれ、
友情は別としてこの「御三家」もばらばらになっていった。
人の心の弱さがなせるわざ――
こんな結論をつけられても仕方がない。
昭和三九年二月二九日 新版初版発行
定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
営業所 東京都文京区西古川町一四
電話(二六〇)〇四二一
振替 東京 五三九〇九
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