女傑・松本フミ[大野伴睦回想録]義理人情一代記・昭和39年
大野伴睦回想録 大野伴睦
義理人情一代記 弘文堂
※カバーは、1961年訪米の際ゲッティスパークに
アイゼンハゥアー元大統領を訪ねて、親しく語る著者。
第六章 忘れ得ぬ人々 p133
3 女傑・松本フミ p144-146
松本フミといっても現在、
この人の名前を知っている人は、ほとんどあるまい。
明治の末から大正にかけて、
政治家の卵の溜り場だった神田・松本亭の女将である。
私も書生時代に七年間も世話になったが、
男勝りの気ッぷのいい女性であった。
現在は靖国神社近くで余生を送っているが、
ときおり私のところにも遊びに来てくれる。
八十余歳の高齢とは思えぬ元気さで、
五十年前そっくりにいまも、天下国家を論じるあたり
「すずめ百まで踊りを忘れず」の感を深くする。
この松本亭は、いまの中央大学の一隅にあって
犬養木堂はじめ国民党の連中が出入りしていた。
木堂は、この女将の気ッぷを好んで「竜吟窟」と命名した。
関羽ヒゲを生やした支那浪人の佐々木照山などの姿もよくみかけたが、
木堂の関係で国民党の面々の巣になっていた。
その後この松本亭には、大正元年の憲政擁護運動をきっかけに、
私などが参加した「都下大学憲政擁護連盟」が置かれ、
政友会の連中も溜りにするようになった。
日本新聞の記者だった古島一雄さんが、
代議士になるとき物心両面から、この女将は援助したほどで、
「溜り」に出入りしていた政治家志願の青年は、
ほとんどといってよいくらいに彼女の世話になった。
この私もその一人で、
松本さんの助力なしでは今日の私はなかったと思っている。
私同様に院外団にいた土倉宗明、藤井達也、深沢豊太郎も
彼女の援助で代議士になった人達だ。
政治が好きだけでなく、
この男は将来見込みがあると思うと、徹底的に支援した。
犬養木堂もおりにふれ
「松本の女将が男だったら、大政治家になったものを――」
と感慨を漏らしていた。
私も全く同感である。
彼女も、女性であるからにはご亭主もあり、三人の子供までいた。
男勝りの人だけにご主人の方が影が薄く、
私が下宿をしていたころは別居生活のようだった。
三人の子供のうち、
男の子は厚生大臣をやった小林英三君の娘さんと結婚、
二人の娘は三重県出身の代議士の息子の兄弟に、それぞれ嫁いでいる。
松本亭の下宿人の変り種の一人に、浅原健三君がいた。
そのころは日大の学生で徹底した右翼だった。
ところが、ひとたび郷里の福岡に帰ると
「熔鉱炉の火は消えたり」の名文句とともに、
最左翼に飛躍してしまった。
両極端は相通ずるとか。
これは真理のようである。
女将がこんな調子だから、使用人にも毛色の変わったのがいた。
その一人に「お市」という女中がいた。
年齢は私らと同じ二十二、三歳。
勝気だが親切に面倒をみてくれた。
松本亭の下宿代は一ヵ月十五円、私はロクに払ったことがないが、
夕食にはいつもお銚子が一本ついた。
夕方、党本部から帰ってくると、お市が夕食をだしてくれる。
ちょうど女将がフロに入る時間だ。
鬼のいない間にと、お銚子一本を大急ぎで飲み
「お市、もう一本頼む」といえば彼女はいやな顔もせず
「あいよ」と、何本でも持ってきてくれた。
もちろん、帳場には一本しかつけていない。
私が市ヶ谷監獄に入っていた間、挿し入れ弁当は、
いつもお市が女将の命で持ってきてくれた。
ある日、弁当箱を開けてみると、
私の大嫌いなラッキョとヌカミソの漬け物が沢山入っている。
「お市の奴、気の利かんやつだ」
私がラッキョ嫌いなのは知っているくせに、
今日に限ってどうしたことか。
独りでぶつぶつ不平をいいながら、
ラッキョと漬け物をハシでつまみ出していると、
高野豆腐が下から出
てきた。
ずるずると高野豆腐を引き出して驚いた。
プーンとウイスキーの香りがする。
酒好きの私に飲ませようと、
高野豆腐にウイスキーをたっぷり浸み込ませてある。
「お市の奴、弁当箱からウイスキーの香りがするのを防ぐため、
わざと漬け物を入れたのだな」
やっと事情がわかったとき、目頭がジーンと熱くなった。
こう書くと、いかにもお市と私と何かあったみたいだが、
なんの関係もなかった。
ささいなことでお市とケンカ口論もよくした。
彼女は黙っていない。
「伴ちゃん、そんなことをいうのなら私から借りた電車賃、
いますぐ返して――」
「ああ、いくらでも払ってやる。一体、どのくらいあるのだ」
こうなると売り言葉に買い言葉。
懐中一文もないのだが、こちらも意地だ。
「四円五十銭よ。今日中に返してよ」
お市は、私が金を持っていないことを知っているので、
わざと期限付きでいじめようとする。
「よしきた。一時間以内に払ってやるぞ」
啖呵を切ったものの、私は文なしだ。
自分の部屋に質草でも探そうと戻ると、
女将の長男の子守り婆さんがあとからやってきて
「伴ちゃん、男のくせにお市なんかにバカにされるなんて、なんです。
これで、さっさと払っておやり」
きんちゃくからくしゃくしゃになった五円札をだして、
私に貸してくれる。
それをおしいただいて台所に引っ返す。
「お市、金ならいま払ってやるぞ。
釣りの五十錢は利息にとっておけ――」
「あら、伴ちゃん。お金を持っているんだね」
「当り前さ。男は五円や十円くらいの金はいつでも持っているものだ」
子守りばァさんから借りた金とは知らず、
びっくりしているお市にむかって、胸を張ったりしたものだ。
思えば、ふるきよき時代であった。
昭和三九年二月二九日 新版初版発行
定価二六〇円
著 者 大野伴睦
発行者 渡辺昭男
印刷所 港北出版印刷株式会社
製本所 若林製本工場
発行所 株式会社 弘文堂
本 社 東京都千代田区神田駿河台四の四
営業所 東京都文京区西古川町一四
電話(二六〇)〇四二一
振替 東京 五三九〇九
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神田錦町松本亭の変遷と女将松本フミと孫加賀まりこ
(2012.3.16 改定) 中村隆昭
大正元年頃 学生だった大野伴睦は騒擾罪で起訴され退学となり、
「松本亭」の食客となる
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