漂う(新婚の大連・暗い時・おんな)吉田蕗女
[随筆集:蕗]昭和46年(1971)7月

1-表紙[随筆集:蕗]
〔画像〕1-表紙[随筆集:蕗]

 筒井筒の 畏友 松村一造様 吉田蕗女 一九七一・五
2-筒井筒[随筆集:蕗]
〔画像〕2-筒井筒[随筆集:蕗]

  漂   う   吉田蕗女

   新婚の大連

 いつか往来の車馬や人声も途絶えていた。
防寒窓から夜更けの道路を眺めると
アカシヤの並木越しに渦巻く雪が絵の様にみえた。
満人商館の並ぶ電車通りの街灯に映えて雪は静かに降り続いた。

 肩に残っている夫の胸の温もりを、
そっと大切にしながら来年の此地での雪は見られまい。
もしかしたら、もう再び二人でここの雪を見る事はあるまいと
二六時中胸を占める不安と焦燥のやり場なさに私は涙ぐんで、
いつまでも寝室の窓に立ちつくした。

 彼の出発後少し遅れて、
生涯の場と思い決め海を渡って来た大連の街であった。
埠頭に出迎えた夫とマーチョに乗り眩しく顔を仰いだ時、
甲種合格で年末には帰国し兵役に服すが、
戦地へ持ってゆかれるかも知れない。
だが必ず又君の所へ帰って来るさと、
夫が労りのまな差しで思いがけぬことを告げた。

 学生時代からの、相愛、親の反対を押しきって、
それなればこそ遠く満州に就職して、
やっと得た二人の巣なのに、
それも後半年の短い時間しか許されていない。
目まいがしそうな絶望と不安が私を絞めつけた。

 社宅は電車通りに面した高台にあり、
晴れた日にはドラや鉦を鳴らし赤い布を垂らした花嫁行列が通り、
動物や家具の張り物を死者の供に白衣の泣き男の声高な葬列も行った。

 朝八時頃から前掛け姿の、
木の腰掛けを抱えた洗濯女達が電車通りを、
てん足の小さな足で歩いていた。
奥さん用ないかとドアから首を出して甲高い声できいた。
一時間イモチエン(十銭)だと言う。
アマに風呂用の太い木を割る様に頼むと、
火箸位の細さに揃え、その労力を惜
p160-161[随筆集:蕗]
〔画像〕p160-161[随筆集:蕗]

しまない器用さが哀れで、
残飯や肉をやると新聞紙にペタッと包み、
シェーシェーと白い歯で笑った。
洋菓子とデリシァスを抱えて帰宅した夫が与えても食べたことがない。
子に持って帰るのである。
国は異っても母情の切なさをその時身籠っていた私は、
いとしい思いで眺めた。

 街中を甘ずっぱいアカシヤの香りが包み、
遅い桜が散ってセルのたもとを六月の青い風が吹き抜けて行った。
別れる日が一日一日と命を刻む様な苛立たしさの内にせつなく過ぎ、
三ヶ月間の朝鮮国境調査に夫はアカシアの街に新妻の私を残して行った。
朝早い出発を紅茶の香りの中で上衣を着せながら、夫の体臭に涙ぐんだ。

 戦争の渦に吸い込まれるに違いない怖れと労りが、
夫と妻の愛情を確め合う様に燃え充実させて、
一層切なくつきつめたものにしたのであろうか。

 夫の出張中、真夜中に玄関のベルがけたたましく鳴った。
廊下に立ったものの満人の犯罪の多いのを知るだけに恐ろしく、
立ち止って息をつめていたが、
鳴り止まぬベルに思いきって鉄鎖りを付けたままのドアを少し開けた。
電報と確認して受け取るまでの、早鐘のような胸の動悸。
「アスアサ八時ツクゲンキアンシンセヨ」
想いの内に夫の瞳があった。

 九月の朝の澄みきった水色の空が白い月を浮ばせ、
ポプラの並木に快い風が渡っていた。

 花を飾り、パイを焼き、薄紫の袂にエンジ色の帯を締めた。
コツ、コツ、コツ、聞き慣れた靴の音に、
胸をはずませてドアが開くや飛びつくのを、
オツと片手で受けとめて、夫の日焼けした顔が笑っていた。

 自由港の大連は舶来品も安く、
日常品は満人商館の雑貨部で揃い、
生活費は月給の半分位で充分で、
若い二人には豊かな生活であった。

 満州の永い日が暮れぬ内に星ヶ浦海岸を歩き、
大和ホテルで食事を摂り
帰路を夫はロシア街の大きな毛皮商の並ぶ一軒へ
つかつかと入って行き、
毛足の長い真っ白な毛皮を、
私の肩にふわりと掛けた。
真っ赤な繻子の飾り縫いが裏一面にある
巾の広い羊毛のストールだった。

 出産を控えて間もなく生死も保証されぬ戦時下の兵の生活に
夫を送らなければならない前途への暗い不安。
どうにもならない時代の波に押し流されようとしている
夫婦のひたむきな日々を、
大連の街は静かに包み、去る日が刻まれて行った。

   暗 い 時

 刻々と戦時色の濃くなる大連の街を去って
年末に内地へ帰って来た私達は、
本郷西片町の母が待つ実家に落ちついた。
東京駅に降り立った私は、コートに七ヶ月の身を包み、
白い毛皮に
p162-163[随筆集:蕗]
〔画像〕p162-163[随筆集:蕗]

深く頬を埋めて不安に耐えた。
夫は正月を祝うと仙台の原隊入営に父母の下に発って行った。
出発前夜、夫は髪を切って来たが、
私の知らない遠い日の俤をみる思いで涙ぐんだ。
どんなことがあっても死なないでと言い続け、
只この一念で戦争を呪った。

 八才の妹と未亡人の母と女ばかりの心細い生活が始った。
三月の寒い日に私は女児を産んだが、
初年兵の夫には電報すら遠慮しなければならなかった。
喜びの返書の中に兵隊姿の写真があったが、
頬の肉がげっそり落ち、目にも力がなかった。
育ちのよい俤は消えて、それは貧相な痩せた二等兵の顔であった。
慣れぬ兵営生活に学究肌の世事の疎さもあり、
毎日ビンタを受け、馬の糞にまみれる一兵卒の、みじめな夫であった。

 出産後、半年目に父の顔を知らない児を残して郷里の輜重隊から
夫は中支へ出征することになり、
電報を受けて駅前の旅館で私は夫に逢った。
一夜も共に過ごせない無残な別れであった。

 半俵の配給の炭を遠い区役所へ貰いに行った。
ねんねこで児を背負った私は
母と代り合って炭を入れた乳母車を押した。

 一月の凍てつく様な道であった。
咳入る母は何か元気がなかった。

 二日後に高熱で母は寝ついてしまった。
チフスと決り、すぐ大学の伝染病棟へ入院した。
薬も乏しい戦時下の隔離病室に一ヶ月余も入院していて、
高熱のため頭がおかしくなった母は、
私の顔を見れば子供の様に甘えた。
おうちへ帰りましょうよと毎日家へ帰りたがる。
笑ってうなづきながら、私は暗い予感に堪えねばならなかった。

 三月十日の夜更け勝手口を激しく叩き、
米屋の若い衆が病状の急変を知らせてくれた。
驚きと怖れに震えながら眠る児を背にくくりつけ、
人通りの絶えた深夜の道を、妹の小さな手をつかみ、
引きずるように病院へ急いだ。

 静まりかえった薄暗い廊下で
「心臓が極度に衰弱している、知らせる所へは急ぐように」
と、医者が小声で言った。
一瞬、すーっと上体の力が抜け吐気と共に貧血を起して倒れた。
児の泣声と医者の声を遠くで聞いた様な気がした。

 卵や牛乳も思うにまかせない、
国も人も貧しいこんな中で、
愛する者の死を見とどけねばならない不運と無力感。
昏睡状態の続く母を、自分の命が切り刻まれる様な辛さでみつめた。

「ハルナ……ハルナ……ハルナ……」
 幼くして父を失った末っ子に思いが残るのか、
妹の名を呼び続ける母がいたましかった。

 危篤に陥って四日目に母は息を引き取った。
その夕、叔父達が同乗した霊柩車が病院を出て行った。
「今から妹の母になる、どんなことが起っても離すものか、
 生きている限り」
p164-165[随筆集:蕗]
〔画像〕p164-165[随筆集:蕗]

 私は母に誓った。
 滲む視野の中を霊柩車は遠去かって行った。
刃の様に鋭く繊い月が暗い空に浮んでいた。

   お ん な

 心の支えだった母に急逝されて、
すべてが終ったような虚しい毎日を、
私は何も考えられないで、
荒涼とした孤独の中に漂った。

 朝になればペロンと顔を洗っただけで
子供達のための食卓に座ったが、
空腹感がなく味がわからなかった。
家の中には母の思い出ばかりなので、
妹とやっと歩き始めた児を連れ、
あて途もなく道を歩いていた。
人にも投げやりな生き方をしていると見えたにちがいない。

 母が買いつけの薬屋が在世中から子供達を可愛いがり
絵本などを持って来たり、
男手のない家の釘などを打って呉れたりしていた。

 或日、病院から母の寝具が返されて来た。
袖に顔を埋ずめて私は嗚咽し続けた。

 いきなり私の手を握る者がある。
いつの間に入って来たのだろうか。
その薬屋だった。

 仰天した私はあわててその手を振り払った。
親切だったこの男の本性はこれだったのか。

 不運のどん底にいる時すら、
女に向ける世間の目の浅ましい生臭さが腹立しく情なかった。
互いに強く生きぬいて、
この暗い時を通り抜けようと誓った夫にも、
何たるぶざまさ。
強く確かな心情で立ち直ろうと、私は決意をあらたにした。

 本社の月給と中尉の軍手当で暮しは充分だったが、
二階の八畳と六畳を大学生達に貸した。
時々五目鮨やお萩を作り母子の食卓に学生達の若い笑声が流れ
子供達も明るくなった。

 五月ともなれば苗売りの声が街に流れる。

 中支の夫の戦死公報が何時入るかの怖れは、
一刻一刻残る命を数える死刑囚の様な不安であった。
軍人会館の集会に頼まれて妹が踊る夜、
私は心配で楽屋への道を通り抜けて行った。

 開け放った窓の中に、
いきなり逞しい二の腕が鮮やかに目を射った。
湯気の中に男の声がざわめき、
そこは若い将校達の脱衣場らしかった。
筋肉の隆起した腕。
それは紛れもなく生々しい夫の肉体だった。
一瞬ハッと息を呑み、足早に通りすぎたが頬が熱くなり、
激しい動悸に目をつぶった。
むごい一撃だった。

 知り尽くした夫婦の日の幻影が意地悪く迫って、
幾度寝返りを打ってもその夜は眠れなかった。

 遠い夫の渇いた女の血が、激しく渦巻いた。
p166-167[随筆集:蕗]
〔画像〕p166-167[随筆集:蕗]

    随筆集・蕗
昭和46年6月20日 印刷
昭和46年7月 1日 発行
発行人 安 間 百 朗
編集人 堀 江   武
印刷人 矢 代 一 郎
発行所 蕗  の  会
    東京都清瀬市元町1-4-12
    TEL.0424-91-5134
    (同人頒価 ¥1,600)
奥付[随筆集:蕗]
〔画像〕奥付[随筆集:蕗]
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