ついに実現した村八分のレコーディング・平田国二郎〔1/3〕
『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
『チャー坊遺稿集』飛鳥新社
平成14年(2002)12月18日 初版発行
〔画像〕『チャー坊遺稿集』中表紙
ついに実現した村八分のレコーディング〔1/3〕 p353-359
平田国二郎
「ニューミュージック・マガジン」七三年七月号
三月の終り頃だったか、
“赤い封筒”という東京の企画者集団から
イベント欄への告知掲載申し込みの電話が入った。
五月一二日、日比谷野外音楽堂で
「ロックン・ロール・タイトル・マッチ、村八分VSキャロル」
をやります。
ヘー、こりゃ、おもしろい、あの腰の重い、
お高い村八分がよく
キャロル相手に東京へ出てくる気になったなと思いつつ
色々話をしていくうちに、
「ヒョッとすると、その時、
村八分のライブ・レコーディングをするかも知れません」
と相手が電話口でささやいた。
そうか、とうとう村八分のレコードの話も
その段階まで進んできたのかと一種、
感慨無量な気持になった。
が、フッと疑問が湧いた。
待てよ、確か村八分のレコーディングは
ロンドンで行われる予定ではなかったのかと。
でも、その時は、あまり気にとめずそのまま電話を置いた。
それから二週間ほどたって、
五月号(編註・「ニューミュージック・マガジン」のこと。
現「ミュージック・マガジン」)
も校了となりホッとしているところに、
また同じ人から電話がかかってきた。
「五月一二日のコンサートは中止になりました」。
バカな! もう五月号は印刷にまわっているではないの、
どうやって訂正記事を載すことができんのや、
マガジン(同前)のイベント欄を見て、
何も知らないで日比谷へ行った人にはどうやってあやまんのや。
そうか、また村八分の連中がゴネよってコンサートを
つぶしてしまったんじゃないやろかと、
いい加減ムカムカしそうになった時、
相手が
「イヤ、断ってきたのはキャロルの方なんです。
何か色々とあるらしくて……」
そして
「すみません、すみません」を繰り返す。
ちょっと意外な感じを受けた。
フーン、そういうこともあるもんかと思いつつ、
「そうすると村八分のレコーディングも中止になったの?」
と聞くと
「ええ、でも村八分の方もライブ・レコーディングをするのに
最適な雰囲気の場所を選びたいということで、
これとは別にエレックと色々相談をしているそ
〔画像〕『チャー坊遺稿集』p353平田国二郎-1
うです」
エッ、エレック・レコードで?
確か去年の暮の話では東芝から出すという話だったはずだのに
どうなってんのかなと混乱した。
村八分というバンドは、
日本のロックに少しでも関心を持っている人なら、
一度か二度は耳にしたことがあるはずだ。
曰く、コンサート途中、
突然アンプをひっくり返して帰って行ったとか。
マガジン(同前)でも
七二年一月号の「インタヴュー」欄でとりあげたし、
今年の二月号でバンドのギタリスト、山口冨士夫君を
鋤田正義さんとのフォト・セッション(?)という形で紹介した。
四年前に京都で結成されたバンドなんだが、
なにしろコンサートに出る回数が少ないし、
出ても途中で気に入らないことがあると前述したように
プイと帰ってしまう。
東京へも年一回、
三田祭のコンサートに出るのに上京する位で、
地元の京都の人以外で、その音に接した人はそんなに多くない。
また、逆に言うと、そういった彼等の行動が
バンドの周囲にアンダー・グランド的な雰囲気をかもし出し、
神秘的で一部に熱狂的なファンを作ったのかもしれない。
去年の暮、三田祭のステージでの彼等を見て
「アリャ、グラム・ロックか」
と言った人がいたが、
化粧なんかも、T・レックスなどが喧伝される
ズッと前からごく普通にやっていた。
もちろん音の方も、
チャー坊のわざと言葉を不明瞭にシャウトするような
ボーカルは固有の風土を持っているし、
冨士夫君のギターは実によくリズムが切れて、
サウンド全体は、こういった表現の仕方はイヤなんだけど、
ストーンズ風……な感じなのである。
で、初めて彼等のコンサートを聞いた人は
「へー、日本にもこんなすごいバンドがあったのか」
と一様にビックリし、
それが口コミとなって方々に伝わるのだが、
しょせん音を聞いてない人々にとっては、
噂のバンド、幻のバンドの域をこえないというのが
これまでの村八分の現状なのである。
そんな彼等に去年の秋、レコーディング話が、
東芝音工から持ち込まれた。
それまでにもレコードの話はないことはなかったのだけれど、
村八分自体が、内心は別にして、
その時期ではないと興味を示さなかったし、
また交渉以前の段階で、彼等の言動を聞いて、
話を持ち込もうとした側が体よく引き下がった。
というよりもそれ位の熱意しか持ち合わせていなかった
といった方が当っているだろう。
でも、今度の話は今までのとは違っていた。
東芝の洋楽担当のIディレクターが、
彼等のサウンドに惚れていたし、
どうしても自分の手でやりたいと熱意をみなぎらせていた。
また彼は村八分の当時の対外的マネージャーだった
木村英輝さんとも懇意な仲であった。
村八分の連中も、あせりはなかっただろうが、
もう若くはないよということに徐徐に気づき始めていたし、
いろんな問題があるにしても、
この話はまとまるんじゃないかと、
当時、冨士夫君の取材で京都へ行ったぼくも感じた。
そう、このレポートの冒頭で「エレックで」と聞いた時、
ぼくが混乱したのは、東芝で話が進んでいるとばかり
思い込んでいたからである。
順を追って行ってみよう。
東芝音工のIディレクターは、去年の十一月十日、
オーバーに言えば期待に胸を躍らせて京都へ飛んだ。
ここでレエコード会社の洋楽担当ディレクター
という職責を説明しておくと、
日本のレコード会社が契約している
外国のレコード会社から送られてくる原盤の
日本市場でのプロモーションが主なる仕事である。
ディレクターとは聞こえがいいが、
原盤は、はるか海の彼方で作られ、
実際の音づくりにはタッチしようにもできず、
それの日本での販売促進役、
言ってみればチンドン屋であると言えば言い過ぎか。
もちろん、それでさえも大変な仕事である。
でも、彼等の夢は、やはり、自分が納得のいく素材を、
自分の手でレコード制作をしたいということであろう。
それが、文字通りのディレクターの仕事である。
Iディレクターは洋楽担当として、
かなりの実績を上げていた。
が、現状にあきたりず、
自分の手でレコード制作をやってみたいという
夢を持っていたと考えてもおかしくない。
いくら洋盤のプロモーションに成功しても
「何だ、たかが輸入屋じゃないか」という声が聞こえる。
しかし、自分が惚れこめる素材というものは、
日本では、そうザラには転がってはいない。
ちょうど、そんな心境と考えられる時に前々から
〔画像〕『チャー坊遺稿集』p354-355平田国二郎-2
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