ついに実現した村八分のレコーディング・平田国二郎〔3/3〕
『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
『チャー坊遺稿集』著者・柴田和志
『チャー坊遺稿集』飛鳥新社
平成14年(2002)12月18日 初版発行
〔画像〕『チャー坊遺稿集』中表紙
ついに実現した村八分のレコーディング〔3/3〕 p353-359
平田国二郎
「ニューミュージック・マガジン」七三年七月号
そこで思いついたのが、
これまた旧知の間柄である
浅沼勇氏のいるエレック・レコードだ。
エレック・レコードは四年前に創立され、
当時、不毛と言われた日本のフォークを取り上げ、
いろいろ問題はあるにしてもそれを成功させてきた、
いわゆるマイナー・レーベルの会社である。
外国レーベルに頼らず、文字通りレコード製作で生きてきた。
浅沼氏は、吉田拓郎や、
NMM(編註・「ニューミュージック・マガジン」)には
あまり馴染みはないが
ケメや泉谷しげるを育ててきた
エレック・レコードの実力者である。
浅沼氏は、この話にのった。
また、のれるだけの余裕がエレックに出来ていた。
七人の侍が、リュックにレコードを入れて、
各地のレコード店まわりをしたというのも、もう昔の話で、
すでに社員七〇人の会社に成長していた。
それにロック部門は皆無で、
タイミングが良かったと
〔画像〕『チャー坊遺稿集』p356-357平田国二郎-3
も云える。
それに、何よりも、昔、ギタリストであった
浅沼氏は村八分のサウンドに惚れた。
話は、トントン拍子で進んで行った、
といきたいとこであるが、
村八分側に変化があった。
それまで交渉の窓口であった木村さんと
メンバーの間がうまく行かなくなったのである。
ここらあたりの話は微妙で、
一説によると、それまで内包されていた、
ロックに対する姿勢の相違が顕在化して、
それが感情的なシコリにつながったと言われる。
しかし、チャー坊に聞いても
「そんなことあらへんで」といい
ハッキリしたことはわからない。
とにかく、村八分はチャー坊をスポークスマンとして
独自に走り始めた。
それにしても話はスムースに運んだとは言い難い。
浅沼氏の下で直接の担当者となった三浦ディレクターは言う。
「交渉途中、この話はヤメてしまおうと思ったことが四回もあった。
彼等のよく言えば純粋な、
商業ベースを無視した言い分には、
ホトホト泣かされた。
彼等の意識はどうあっても、
村八分はまだ世に知られていない新人バンドなんですよ。
態度は横柄だし……。
ま、それでも交渉を続けて行ったのは、
結局、ぼくも村八分の音に惚れたし、
つき合っていくうちに、
チャー坊なんかの人柄に好感を持って行ったからです」
三月の下旬、交渉は成立した。
一、レコード製作はエレックが行うがその権利は村八分側が持つ。
一、契約は長期契約ではなく、今回のみである。
一、レコーディングはライブの形で行なう。
お金のことはどうなっているのか?
三浦氏は
「それはちょっと……。
ただ今回の契約は新人バンドとしては破格の条件です。
ひとつ言えることは、
原盤使用料として利益の1/3を払います」
しかし、ある情報通によると
「契約料というか、
前渡し金として三〇〇万、それに、
村八分が楽器購入のためにW楽器に借りている
四〇〇万を肩がわりする。
そのほか、何やかやで一千万近くの金が動くんじゃないですか」
もし本当なら、本当に破格の条件である。
この点をチャー坊に問いただすと
「ウフフ、そんなとこかな。
とにかく俺らは、この金で外国へ行くんや、
アムステルダムへ」
「何でアムステルダムヘ?」
「なんでって、あそこは景色がええやろ」
ライブ・レコーディングは五月五日、
京都大学西部講堂でフリー・コンサートの形で行なわれた。
三浦氏によると
「PA,照明、録音機材、スタッフ、
今の時点で望めうることはすべてやった。
おそらく全部で七〇〇万円はかかっているでしょう。」
ということになる。
ぼくはそのコンサートに行けなかったし
テープもまだ聞いていないが、
当日そのコンサートで初めて村八分の音を聞いた
編集部の北中君の話によると
影がうすくなる出来だった」そうだ。
レコードは六月二五日に二枚組で発売される。
その時、村八分はおそらくアムステルダムにいるだろう。
(ひらた・くにじろう プロデューサー)
〔画像〕『チャー坊遺稿集』p358-359平田国二郎-4
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『チャー坊遺稿集』『1950~1994』
二〇〇二年一二月一八日 初版発行
著 者 柴田和志
発行者 土井尚道
発行所 株式会社 飛鳥新社
東京都千代田区神田神保町3-10
神田第3アメレックスビル
電話 (営業)03-3263-7770
(編集)03-3263-7773
〒101-0051
印刷・製本 日経印刷株式会社
定価(本体3,500円+税)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年11月19日 11:00
◆柴田和志 [村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説1/5
(昭和)48年5月5日 京都 京大西部講堂にて収録
村八分は、日本のロック黎明期に登場した
最もラディカルでヒップなグループだ。
日本古来の文化と斬新な創造力に溢れていた
当時の京都という風土が生んだ異端、
日本では成立しないとさえいわれていた
ドラッグカルチャーの落とし子である。
その激烈なオリジナリティーは、
日本語のロックの可能性を大きく広げ、
多くのアーティスト達に強い影響を与えている。
20年以上の時空を超越して今もなお燦然と脈打つ
妖しくも艶やかなロックンロール・サウンド。
このCDは、村八分がリリースした唯一の作品を
完全収録したものである。
(オリジナル盤/エレックレコード
No.ELW-3003 1973年6月25日発売)※昭和48年(1973)
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年11月19日 11:01
◆柴田和志 [村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説2/5
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◆柴田和志 [村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説3/5
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年11月19日 11:05
◆柴田和志 [村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説4/5
村八分『ライブ』プロデューサー
浅沼 勇 インタビュー①
――加藤さんは初めに東芝の石坂敬一さんに ※2:石坂敬一
村八分を紹介したという話もありますよね。
浅沼 レコード会社が手を出せなかったんですよ。
加藤君としては何処でもよかったわけで、
それで相談に来たんですよ。
で、ウチならやれるからやろうか
という話になっただけで。
僕自身もエレックやってましたけど、
フリーの部分が強かったから各社と仕事をしてたわけです。
だから石坂の所でもいいし、
三浦(光紀)君のところでもよかった。 ※3:三浦光紀
しかし何処って問題じゃなかった。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年11月19日 11:06
◆柴田和志 [村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説
[村八分ライブ:完全盤CD2枚組]解説5/5
村八分『ライブ』プロデューサー
浅沼 勇 インタビュー②
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