大隈奏議書と小野の時論「今政十宜」の際立った照応関係を論証し、
明治14年の政変における小野梓の決定的役割を描く:姜範錫1991
「明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの―」
姜範錫 カンポンソク 1991
明治憲法 成立の前夜、なにが起こったか。
参議筆頭大隈らが一斉退陣に至った事件の実相に迫る。
大隈重信 小野梓
薩長藩閥体制の基盤をつき崩す
したたかな工夫をこらした大隈の立憲政体奏議書。
その行間には、薩長「一、二種族の専有」打破を期す
小野梓の怨念が立ちこめていた。
伊藤博文ら薩長勢力は、
“獅子身中の虫”のただならぬ動きを感知したとき、
大隈重信一党駆逐の陰謀に思い立つ。
大隈奏議書と小野の時論「今政十宜」の際立った照応関係を論証し、
政変における小野の決定的役割を描く。
◉朝日新聞社◉
姜範錫著 朝日選書 435
ISBN-02-259535-3 C0321 P1100E 定価1100円(本体1068円)
〔画像〕「明治14年の政変」姜範錫著
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年05月07日 06:07 ◆小野梓 小野梓:資料
《小野梓=士族から平民》
「明治14年の政変」姜範錫=元駐日韓国公使:平成3年
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池田信夫 blog
万年野党の起源
2014年04月19日00:30
「明治14年の政変」について補足。
この事件は、名前も地味なのでほとんど知られていないが、
『福翁自伝』にも出てくる重要な政変である。
福沢諭吉は「大笑ひな珍事」とぼかしているが、
このとき福沢と大隈重信などの交詢社のメンバーが
反逆の容疑をかけられ、
大隈とそのグループの官僚が罷免された。
このとき彼らの盟友だったはずの板垣退助が大隈を支援せず、
自由党を結成した。ここには複雑な事情があった。
もともと板垣や植木枝盛などの急進派は
政府から排除されたドロップアウトなので、
政権を取る気はなかった。
彼らにとって議会は、
政府に対して文句をいう苦情処理機関で、
多数派になるのは拒否権を発動するためだった。
ここでは「天皇の官吏」が立法府=行政府で、
議会はそれに文句をいうだけの万年野党だったのだ。
福沢や大隈はイギリス型の立憲君主制をめざしたが、
井上毅や伊藤博文などの保守派はこれを
「主権は専ら議院に在りて、国王は徒に虚器を擁するのみ」
として拒否し、
プロイセン型の君主が実権をもつ憲法をめざした。
この保守派と急進派の利害が一致し、
井上毅は板垣などと連携して
福沢・大隈グループを政権から追い出し
プロイセン型の明治憲法を起草した。
これは政変としては大した事件ではないが、
その後100年以上にわたって
日本の「国のかたち」を決める出来事だった。
このとき交詢社グループの考えたように
議会が実権をもつイギリス型の憲法をつくっていれば、
予算が際限なく膨張することを阻止して
愚かな戦争も防げたかも知れない。
また天皇のご決断を仰がずに終戦の決定を下せたので、
原爆投下やソ連の参戦・満州や樺太・千島への侵攻を防げたでしょう。
この「政策を決める官僚機構と国民に迎合する議会」
という組み合わせが明治時代に定着し、今も続いている。
自民党でさえ、政策立案は議会の仕事だとは思っていない。
すべての政党が万年野党になる拒否権型議会主義は、
明治14年に生まれたのである。
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