南洋の新聞・花柳界・「知名朝信(知花朝信)」沖縄空手
【南洋の旅を終へて】山内磐水・会津新聞社・昭和10年

【南洋の旅を終へて】昭和10年
南洋の新聞  p67/78
南洋には新聞社が三社ありますが
之はサイパン島のガラパンと云ふ處にあるのでありまして
何れもサイパン、テニアン、ロタの三島を勢力範圍として居ります。
其の内で一番に古い歷史を持つ居るのが
南洋ラヂオ新聞といひ
興發會社の中に在りまして會社の機關新聞です。

一般としましては
南洋振興日報南洋朝日新聞
二社が猛烈に競争を續けて居りますが
新聞事業と云ふ點から見ますれば
南洋に於ける如何なる仕事よりも
新聞業丈は甚だ幼稚であると
申上げなければならんので御座います。
 ―略―
 ―略―
兩社の幹部は
南洋振興日報社では
近藤三男氏が主筆、同氏の兄が主幹をして居ります。

南洋朝日の方は内藤武猪郎氏が主幹、
吉村寅男氏が主筆となつて居ります。
 ―略―

花柳界  p72-73/78
南洋で割合に發展してゐる商賣は先づ花柳界であります。
何しろ植民地で血の氣の多い若い人が澤山な丈け
一種云ふに云はれぬ氣分に支配されるとでも申しませうか
相當に繁昌して居ります。

尤も植民地と花柳界とは殆ど附物の樣なもので
開拓地が發展する程花柳界が伸びて行く樣に思はれます。

それかあらぬか南洋では何營業よりも
此の方面は發展してゐるのは事實です。

試みにサイパン支廳及
テニアン支廳に就き
數字的に調査して見ると
昭和九年六月一日現在の統計は左の通りであります。

 サイパンでは
 料理店が四十三戸(内純粹の料亭が僅かに三戸)
 カフエーが十一戸
 此處に働いてゐる
 藝者が三十三人 酌婦が七十一人 雇女が二十人。

 テニアンでは
 料理店が十九戸
 カフエーが六戸で
 此處に働いてゐる
 藝者は十一人 酌婦が九十人 雇女が十一人。
となつて居ります。
これは表面届出になつて居る者許りで
その實際は御目見得とか又は手傳とかの名義で
未だ正式に届出になつて居ない者も
相當にあるだらうとの事であります。

線香代は三十分一本の計算で藝 者が五十錢 酌婦が三十錢です。
そして飲食物の所謂(定)なるものは
日本酒(灘物が一圓會津物は八十錢)
ビールが六十錢 サイダー三十錢
宿料は二圓五十錢から三圓位の見當になつて居ります。

南洋に行つて居る
藝妓は三年住込で千圓から七百圓
酌婦でも五百圓から三百圓位の間を往來して居るのだ相です。

尤も被服とか小遣とかは主人持ちで
歩合は主人が六分 本人が四分の割合な相であります。

もともと接客業であるため
當局でも檢梅は毎週やつて居るが
其成績が非常に良好で少しでも怪しいと思ふと
早速治療をさせなければ營業を許さない事にしてあるので
絶對に安心であると云ふ事であります。

沖縄藝者
 ―略―

その外に沖縄の人には空手と云ふ體術をやりますが
これ又實に勇壯極まるもので
男性的な護身術であると云ふので
此頃は大學あたりで盛んに研究して居ると云ふ事です。

テニアンの第三農場の招待會の時、
「知名朝信(知花朝信)」と云ふ沖縄の人が演じた空手は
物凄い程 鮮かなものでありました。
中にも棒押しと板割に到つては
全く神技と云つてもよい位なもので
これには全會場から拍手の雨が降つたのであります。

昭和十年二月二十八日 第一版印刷 【非賣品】
昭和十年三月 五 日 第一版發行
編輯發行兼 福島縣若松市當麻町一四
印刷人   山内 岩記
印刷所   福島縣若松市當麻町一四
      會津新聞社印刷工場
發行所   福島縣若松市當麻町一四
      會津新聞社
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
知花 朝信(ちばな ちょうしん)
(1885年6月5日 - 1969年2月26日)
戦前から戦後にかけての沖縄の著名な空手家。
小林流の開祖である。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇