[日本赤十字社病院]第一回(10名)第二回(9名)
看護婦生徒卒業證書授與式:明治25年(1892)5月30日
【官報. 1892年06月04日】

【官報. 1892年05月10日】明治25年
〇日本赤十字社錄事  p4/9
本社第二回募集看護婦生徒五人及
京都廣島愛媛等ノ各支部ヨリ選出ノ生徒四人ハ
所定ノ學期ヲ卒ヘ卒業試驗ニ於テ孰モ及第シタルヲ以テ
去月(四月)十六日ヨリ實地看護婦ノ業務ニ服シ
且ツ第四回ノ召募ニ應シ及第シタル者八人ハ
同日ヨリ入學セシメタリ(宮内省)

【官報. 1892年06月04日】明治25年
〇日本赤十字社錄事  p2-3/5
去月三十日午後三時 ※明治25年(1892)5月30日
下澁谷村日本赤十字社病院ニ於テ
第一回 第二回 看護婦生徒十九人ニ卒業證書授與式ヲ擧行セリ
其景況左ノ如シ(宮内省)

去月三十日午後三時 ※明治25年(1892)5月30日
下澁谷村日本赤十字社病院ニ於テ
第一回 第二回 看護婦生徒十九人ニ
卒業證書授與式ヲ擧行セリ
本社篤志看護婦人會幹事長 小松宮妃殿下
同副長 北白川宮妃殿下 華頂宮郁子殿下及
本社監督 石黑軍醫總監 臨場及
前田侯爵夫人、鍋島侯爵夫人、小笠原伯爵夫人、
其外婦人會員ノ參會スル者十數人
本社役員ハ佐野社長 花房副長 鍋島常議員 淸水幹事
橋本病院長及
看護婦養成委員長 三條治子 足立寛 同委員
櫻井子爵夫人 花房夫人 同敎員等
合計六十餘人 式場ニ整列セリ
p2-30【官報. 1892年06月04日】明治25年
〔画像〕p2-30【官報. 1892年06月04日】明治25年

橋本病院長 先ツ授與式擧行ノ旨ヲ披露シ
夫ヨリ順次ニ證書ノ授與ヲ執行セリ
畢テ受證者一同 殿下ノ御前ニ整列
殿下ヨリ諭旨ヲ賜ヒ佐野社長之ヲ朗讀シ
更ニ社長ハ生徒將來ノ心得方ニ就キ懇切ナル演述ヲ爲シ
畢テ卒業生總代《皆吉チカ》謝詞ヲ呈ス
午後四時式終リ別室ニ於テ各參會者ニ茶菓ヲ供ス
此際 幹事長殿下ヨリ養成委員長 同委員敎員等ヲ召サレ
特ニ慰勞ノ御詞ヲ賜ハリタリ
當日 幹事長殿下ノ御諭旨、社長演説ノ要旨
生徒總代謝詞及 受證者人名等 左ノ如シ
  卒業生徒人名
 第一回(10名)
皆吉 チカ  貞末 マキ  曾我 鏗爾
大越 タマ  竹中 スヘ
川勝 タメ  靑柳 ナオ  塚本 トミ
太田 ナミ  野村 チヨ
 第二回(9名)
京都支部選出 高木 ハル
       西澤 ミ子
廣島支部選出 川村 モト
       今井 ワカ
愛媛支部選出 俊野 イワ
       市川 ヱイ
       淺井 ウメ
       神藤 タイ
京都支部選出 中村 アイ

  幹事長殿下御諭旨
   ―略―
  社長演説
   ―略―
  生徒總代謝辭
   ―略―
p3-30【官報. 1892年06月04日】明治25年
〔画像〕p3-30【官報. 1892年06月04日】明治25年
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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日本赤十字看護大学 同窓会
同窓会の歴史(1) 創生期
 来たる2015(平成27)年、
日本赤十字社の看護師教育は125周年を迎えます。
そこで、本稿では、看護師教育とともに歩んできた同窓会の歴史、
中でも創生期に焦点をあて、
同窓会の始まりと尽力された先輩の姿を皆さまにご紹介します。
 日本赤十字社の看護婦養成は、
1890(明治23)年4月より現日本赤十字社医療センターの前身である
日本赤十字社病院で開始されました。
第1回入学生は10名で、
当時は1.5年の学業と2年の実習の3.5年課程で、
1.5年の学業を終えた時が卒業でした。
卒業の直前に濃尾地震が発生したため、
第1回生と従来からいた看護婦10名のあわせて20名が
救護活動を行いました。
そして、1892(明治25)年5月には、
第1回生(10名)第2回生(9名)合同の卒業証書授与式が行われ、
赤十字の養成施設から初の看護婦が巣立っていきました。
 1892(明治25)年,養成所1回2回生卒業証書授与式
1892(明治25)年,養成所1回2回生卒業証書授与式,
所蔵:日赤看護大学史料室
 当時、日本赤十字社で養成された看護婦は、
卒業後も20年間は日本赤十字社の召集に応ずる義務があり、
戦時平時を問わず必要があれば
日本赤十字社が行う救護活動に従事していました。
その後、義務年限は、
15年間、12年間、7年間と次第に短縮されていきました。
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日本赤十字看護大学 史料室
2. 濃尾地震における救護
濃尾地震
明治24年10月28日午前6時37分に発生。
轟音とともに激震が起こり、家屋が倒壊し、直後に火災が発生、
市街地の半分が焼失しました。
死因は圧死または梁に敷かれたままの焼死、負傷者の創は
頭部や顔面の裂傷、腰から下の挫傷が多かったといいます。
現地では医療材料の圧倒的な不足と医師らの負傷により病院が機能せず、
押し寄せた患者は病院の外にまで拡がり、
なすすべもなく呻吟する声が響きました。
派遣された救護員
第1回愛知県出張員の編成は医員2名、看護婦4名でした。
岐阜県出張員の編成は被害がさらに甚大との報告を受け、
事務員1名、医員3名、看護婦6名としました。
前年の明治23年より日本赤十字社病院で養成が開始され、
1年半の学業を終えたばかりの本学の第1回生も参加していました。
出発する卒業生に対して佐野常民社長は、
習得した看護法を実地に応用することの他、
「至誠以て救護に従事すべきこと」、
「奮勉以て難苦を堪へきこと」、
「節操以て品行を慎むこと」
の3つの要件を厳守すべきと訓示しています。
負傷兵を敵味方の別なく救護するかのように
貴賎貧富に分かたず懇篤に看護を行うこと、
霜や風雨に冒され、
山野の間に夥多なる患者を救護するのだから
不堯不屈の精神でこれにあたること、
そしてその功績が水の泡にならぬよう品行を保ち、
本社看護婦たる名誉を失墜してはならないと申し添えました。
 青柳ナオ(左)曾我鏗爾(右)
青柳ナオ(左)曾我鏗爾(右)
日本赤十字社病院看護婦養成所第1回生
日本赤十字看護大学所蔵
明治23年に開始された日本赤十字社病院での看護婦養成の第1回生。
濃尾地震当時、1年半の学業を終えて、実務についたばかりであった。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
[日本赤十字社病院]第三回(明治28年)~第九回(明治30年)
卒業看護婦氏名【官報】
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