《杭州日文学堂 堂長 伊藤賢道》
明治32年(1899)1月~明治39年(1906) 8月
[清末中国における東本願寺の東文学堂]劉建雲

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岡山大学大学院文化科学科紀要第10号(2000.11)

            劉 建 雲

 1. 杭州日文学堂  p5-7/21
 杭州日文学堂は、
東本願寺が光緒25年(1899)1月20日 ※明治32年(1899)
杭州忠清巷に開設したものである。
堂長は「連枝」慧日院の「侍読」に選ばれた
帝国大学出身の文学士伊藤賢道であった。
 ―略―
 開学の際、生徒は約60人ほど集まったようだが、
前3ヶ月の生徒名は日文は22人、
英文は16人の記録しか残されていない。
後に生徒が更に増えたということで、
堂長の伊藤賢道は遠路就学生の便利を図るため、
1ヶ月後の4月1日、更に上城保安橋というところで
「東亜学堂」という同種の学校を開いた。
ここにも入学者が多く、
一時寄宿生6名、通学生50名の規模に達したという。
 ―略―

 1900年(明治33年)春、  p6/21
現地の林大令・李修士という両人物の寄付金300圓によって
化学機械や薬品を購入し、
4月に校舎を銀銅橋畔に移して、化学会や日英語実演会が開かれた。
後に医務室まで設けられたが、それは長く続かず、
しかも6月には義和団事件のために学堂は閉鎖し、
伊藤らは上海へ引き上げることになった。

 学堂が再開したのは同年(明治33年)11月のことであるが、
伊藤らは地方官を歴訪したり再開の広告を出したりして
1ヶ月の日数を費やした。
 ―略―

 1904年(明治37年)初め、  p7/21
東本願寺より補助金の中止が知らされ、
これをきっかけに杭州日文学堂堂長伊藤賢道の行動は、
中国人に対する教育事業から清国寺産の収奪へと変質していく。
1906年(明治39年)8月、
伊藤は「当地方の安寧を妨害」する者として、
杭州駐在領事より国外退去処分を受け、
該学堂も終焉を迎えるのである。

杭州日文学堂は7年半、
金陵文学堂は10年近くも存続した。 p10/21

 1906年(明治39年)8月13日、  p15/21
紹興府における伊藤等の「惑衆斂銭」の行為で
浙江洋務局の強い抗議文に接した杭州駐在領事は、
「我布教事業カ斯カル人物ノ手ニ委シアルハ不都合ナル」
と判断し、上海総領事と協議の上、
伊藤に対して向かう3年間の在留禁止を申渡し退去を命じた。
こうして、杭州日文学堂も自ら閉鎖されたのである。
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