杭州日文学堂 明治32年(1899.1) 「杭州城内忠清港」
清末の日本語学習書からみる日本語教育《魏 維》

   ―『寄学速成法』を通して―
     魏   維
-ぎ・い、広島大学大学院文学研究科博士課程後期在学-

2 林文潜と杭州日文学堂について p2/14
『寄学速成法』は1901年12月に林文潜によって編纂されたものである。
図1の奥付からわかるように、
発行者は温州瑞安虹橋の寄社であり、刊印者は翁宏昌である。
ここで注意すべきことは、
翁宏昌の住所である「杭州城内忠清港」が
1899年1月20日(旧暦)に日本東本願寺によって開設された
杭州日文学堂の所在地でもあったことである。
『張棡日記』には、林文潜が1901年1月の末頃(旧暦)、
上海を経由して杭州にある
学堂へ日本語を勉強しに行くという記述があり、
『寄学速成法』は林文潜が杭州日文学堂
日本語を勉強してから書かれたものであると推測できる。
杭州日文学堂における日本語教育が一体どれほど
実践されていたかははっきりしていない。
しかし、『張棡日記』において、
わずか一年間で本を完成させた林の才能を絶賛していたことや、
林が当時杭州の有名な翻訳雑誌である
『訳林』の翻訳の仕事を担当していたことから、
杭州日文学堂で日本語教育を受けた林文潜は
相当な日本語能力を身につけていたと推測できる。

⑻ 林文潜(1897-1903)  p13/14
字州髄、浙江省瑞安の出身。
1901年(明治34年)1月頃杭州日文学堂に入り、
8月頃南洋公学の特班生として入学し、
日本語教科書の翻訳を担当していた。
また、同時期に、支那翻訳館で翻訳者を務めた。
その後、瑞安に戻って日文速成蒙学を創立した。
1903年(明治36年)3月日本へ留学したが、病気で帰国し9月に死亡。
呉(1965)は林を「晩清先進革新人士」と評価している。

⑼ 仏教の浄土真宗大谷派の本山である。  p13/14
日清戦争後清国で布教活動を展開し、
教育事業も積極的に推進した。
その教育事業として、
杭州日文学堂を始めとする6校の東文学堂を作った。
杭州日文学堂(1899.1)の他、 ※明治32年(1899)
金陵東文学堂(1899.1)、蘇州東文学堂(1899.5)、
蘇州有隣学堂(1903.10)、泉州彰化学堂(1901.8)、
彰州日華書院(1902.4)。

⑿『訳林』が1901年、伊藤賢道、林長民などにより主編された
中国浙江省最初の翻訳雑誌である。  p13/14

⒀ 林長民(1872-1925)       p13/14
1899年(明治32年)10月頃杭州日文学堂に入学。
その後『訳林』の主編を務めた。
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14. 杭州の歴史-12 明
10.明
城東の忠清巷
通聖土地廟付近が杭州絹織物発祥の地と言われています。
唐の大臣、ちょ遂良の子孫が揚州から
杭州忠清巷に機織の技をもち移り住んだと、
明の時代の書物に書かれています。
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