blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2020年11月16日
【満州引揚】
《小野又一》昭和21年7月
《松村一造》昭和22年2月
《小川清秀》昭和22年2月
《小川清久》昭和28年8月
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《小野又一》《小野文子》《小野 安》
引揚出港地  コロ島  船名 L.S.T.
上 陸 地  仙崎港
引揚(上陸)年月日 昭和21年(1946)7月20日
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和合正治氏 (元松本市長)昭和21年6月。
いよいよ引き揚げが始まった。
私たちはコロ島(錦西市)へ移動。

信濃毎日新聞松本専売所WEB
◎私の半生 タウン情報掲載

私の半生 第8号
和合 正治氏 (元松本市長)

元松本市長 和合正治
略歴
1917年(大正6年)松本市に生まれる
1929年(昭和4年)松本市立旭町尋常小学校卒業
1934年(昭和9年)県立松本中学校(現深志高校)卒業
1938年(昭和13年)松本市役所に就職
1940年(昭和15年)満州国官吏
1946年(昭和21年)終戦により引き揚げ
     松本市役所に就職
     総務部長、総務、財政、税務、各課長
1969年(昭和44年)松本市助役
1976年(昭和51年)松本市長
     全国市長会副会長
北信越市長会、長野県市長会各会長
松本市、藤沢市、姫路市、ソルトレーク市、各市名誉市民

5 市役所に就職 振り出しは社会課 途中満州へ
 私は早速、熱河省公署に配属された。
ちょうど県庁のようなところである。
まず官房の総務課に配属が決まる。給料は80円。
松本の市役所の実績が買われて高給だった。
しかも物価が安く、住居も独身寮へ賄い付きで入ることができ、
費用は20円もかからなかった。
松本では自宅から通っていたが、給料は35円ぐらいで外食をしたり、
仲間同士で芸者遊びをしたりしたので貯金など全くできなかった。
それに比べて満州ではどうだろう。
給料は高いし、遊ぶ所は無いし、いくらかの貯金をすることができた。
 最初に住んだ所は人口5万人という承徳街。
私のまわりには日本人が200人ぐらい、
漢民族、満州族、蒙古人、韓国人などが大勢いて会話は中国語だった。
私は日本語しか話せず、最初のころは本当に困ったが、
身ぶり手ぶりで何とか通じるようになり、暇を見つけては勉強もした。
中国語にも方言があり、それらを覚えるのは苦労だった。
治安もあまりよくなかったが、当地の生活習慣が身につくと、
それほど恐ろしくなかった。
昭和18年の冬を迎えたころ、父親から手紙が来た。

6 いきなり挙式 父の一言で決めた花嫁の隣に
 新婚生活は満州の承徳街の官舎でスタートした。
承徳は関東軍の満州地区西南防衛司令部があったためか穏やかだった。
しかし、熱河省のあたりでは日本人の思想家、岡野進(後の野坂参三)が
広報宣伝活動をやっていることを聞き、不安はぬぐえなかった。
満州で生活していると、
日本の様子や戦争のことはラジオで聞くくらいで、
確かな情報は極めて少なかった。

7 妻と避難生活 邦人家庭に居候 タネ油売り
錦州県の県長は満州人だったが、副県長は日本人で、
しかも長野市出身の森山誠之さんだった。
この森山さんこそ私が承徳街にいた時の上司で人事課長だった人である。
ある日、その森山さんが小学校の校庭に来ていることが分かり、
私は会いに行った。

8 引き揚げ キップを手にとにかく信州へ
 昭和21年6月。いよいよ引き揚げが始まった。
私たちはコロ島(錦西市)へ移動。
港に一番近い地区の滞在者から順に引き揚げることになり、
アメリカの船(LST)に乗ることが決まった。
 私たちは引き揚げるにあたって食料を準備した。
3日ほどで帰れると言われたが、5日分を用意。
途中で伝染病などが発生すると、
たちまち足止めになるので何もないことを願いながら船に乗り、
日本に向かった。
途中、船の中で自殺する者や病死する者もいて、
その人たちを葬るのがとてもつらかった。
船上で祈りを済ませたあと、海底へ沈める水葬を行ったが、
これが何とも悲しい祭事でもあった。
 3日間の航海の後、佐世保に寄港し、
手続きをするのにまた3日かかった。
ようやく故郷に帰ってもよいという知らせを受けると、
私たちは、自分が帰るところまで使えるキップの配給を受けた。
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