枝吉神陽先生【佐賀先哲叢話】明治35年

【佐賀先哲叢話】明治35年
  枝吉神陽先生  p83/136
先生、名は經種、字は世德、通稱は木工之助、神陽と号じ、
南濠翁の長子なり、
文久二年八月歿せられ享年四十一、
先生、稟生、端凝、幼にして能く言ひ、
七歳にして書を學び、強記、比なく、
一たび眼に觸るれば終身、
忘れ給ふことなかりき、
初め業を父に受け、後、
江戸に遊び、昌平學に入りて舎長となり、
歸りて國學敎諭に任せられ給ひき、
先生、容貌魁梧、面、方にして
口、大に音吐、鐘の如く、
屏障も爲めに振はむとす、
眼、偉長にして、烱光、人を射、
隆準、長耳なり、
健脚、比なく、日に二十里を行かれぬ、
曾て高展を着け富士山に登降し
少も疲れ給はざりき、
さて其の度量は、
以て人を容るゝに足り、
聽識は、以て國家を經綸するに足り、
勇往事を斷じ、
眞僞、世を風動し
慈善、衆に弘被するに足れり、
或は徑義深奥、史學、宏渉にして、
文辭、秀逸なるに服するものあれども、
これ特に緒餘のみ、
其の學、拘泥するところなく、
常に申されけるやう、
朱子、陽明、何ぞ學ぶに足らむ、
唯、經を以て經を解かむのみと、
傍、皇學に深く、
能く國詞を以て雅麗の文を作り給へり、
先生、夙に勤王
の志を抱き、
常に名分の正からざるを慨し、
書を著して其の志を言はれ、
乃ち天下に遊び、
一たび磊々落々の志を成さむとせらけるに、
到る所、多く合はず、
因て歸りて敎育に從はれぬ、
 -略-
令弟、副島滄海君をして、
 -略-
曾て乘輪公の時に方り、
深江信谿と云ふ人ありて、
 -略-
先生、之を慨して、相良惣藏翁に尋ねて、
 -略-
 祭楠神文、 神陽文稿
 -略-
 -略-

明治三十五年 十月二十八日印刷
明治三十五年十一月  四日發行 (定價金四拾錢)
著 者 中島 吉郎
    佐賀市赤松町二百二十三番地
發行兼 木下泰三郎
印刷者 佐賀市松原町百五十二番地
賣捌所 木下泰山堂
    佐賀市松原町百五十二番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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