穗積陳重男爵:召使などとは直接言葉を交はさない
【横から見た華族物語】昭和7年

【横から見た華族物語】昭和7年
  五 子爵令嬢の結婚ローマンス p49-51/148
 子爵澁澤榮一は、財力の點では第二流であつたが、
その閲歷が普通の成上り者と違つて居るのと、
久しく財界巨頭の位置を占めて居た關係上、
政府でも輕々しくは取扱はず、
實業界でも亦、子の地位を利用して、
これを表看板にしなければ、
何をするにも不便を感ずるといふ有樣で、
その隱然たる勢力は、社會の各方面に及んでゐた。
 -略-
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穗積陳重男は、學閥の出身で、   p51/148
最初の閨閥記錄を造つた人である。
男は豫州宇和島の生れで初めは入江某の養子となり、
養家から學資の供給を受けて、
五年間英獨に留學したが、
歸朝後は大恩ある養家を袖にして、
澁澤男の女婿となつた。
彼は明治學界の耆宿には相違なかつたが
國法學者としては、
新智識に乏しいとの誹(そしり)があつた。
 大學敎授にしては不相應な生活をし、
朝野の間に重んぜられたのは、背後に澁澤子を控ゑ、
一方には兒玉源太郎伯の女を迎へて伜の重遠氏の妻とし、
寺内伯とも姻戚の關係があつた爲めであらう。
舎弟の八束氏は、富豪淺野總一郎の女婿である。
明治十六年大學を卒業し、
獨逸に留學して歸朝後、
帝大の敎授となつて憲法講座を擔任し、
傍ら樞密院書記官や法制局參事官を兼ね、
後には貴族院議員に勅選せられた。
 彼が大學で憲法を講義する樣子を見てゐると、
襟を正して天神髯をひねり、衣冠束帶的な態度で、
宛(さなが)ら神勅を告げるやうな調子で
官府萬能を諄々として説く。
彼は官府を神聖なものと思つて居るやうだが、
自己自身をも神聖視し家に居る時でも、
身分の卑しい召使などとは直接言葉を交はさない。
車に乘つても行く先を言はず、
車の上から頤(あご)で指揮する。
 いつであつたか、
大學に出勤する筈で車に乘つたが、
車夫が誤つて樞密院へ引き込んでしまつた。
然し言葉を發して、
直接車夫を叱るやうなことはせぬ。
車の上から頤(あご)をしやくつて、
元の道へ引返へせと命令して居る。
車夫は心得て轅棒(かじぼう)を握り、
踵を返へして、
再びまた自邸へ引き返してしまつた。
その爲め男の激怒を蒙つて、
その日限り
抱(かかえ)車夫を解雇されたなどの珍談もある。
昭和七年六月 十五日印刷
昭和七年六月二十九日發行  定價 金壹圓貳拾錢
著 者 山口 愛川
發行者 河西菊次郎
    東京市本郷區湯島新花町百番地
印刷者 河西菊次郎
    東京市本郷區湯島新花町百番地
印刷所 一心社印刷所
    東京市本郷區湯島新花町百番地
發行所 一心社出版部
    東京市本郷區湯島新花町百番地
    電話 小石川三三七一番
    振替 東京一三一一六番
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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