大隈重信の脱黨理由 小野梓の辭表
[立憲改進黨](明治17年12月)
【大日本政党史】大正2年

【大日本政党史】大正2年
 自 敍             p7/313
  大正二年秋  若林城南識
  第二節 立憲改進黨      p157/313
   第一款 立憲改進黨の組織
 -略-
大隈、河野は率先して左の脱黨届を提出したり。
 時勢の變遷により黨員名簿の不用なるのみならず
 却て不可なるを感じ之を癈せんことを詢りしに
 在京黨員の中不同意のものあり
 已に不同意のものあれば之を全黨員の會議に附し
 互に多數に由て其可否を決すべきものにあらず
 依て不得止除名を請ふ
   明治十七年十二月十七日
          河野敏鎌
          大隈重信
     立憲改進黨掌事御中

 大隈の脱黨理由とする所甚だ薄弱にして、
其改進黨との關係よりせば、
脱黨の理由は自ら他に在るが如し。
當時其理由としての説によれば、
沼間守一、島田三郎三十餘人、
此民間の衰弊を救はんには、
宜しく地租を減じて農民の負擔を輕くすべしとの説を唱へ、
建議書を政府に提出せんとせしに、
大隈總理は之に反對し曰く
「百事擴張を要するの今日に方り、
 國費の繁多なるは亦止むるを得ざるなり。
 然るに之れが財源たる地租を減ずるの説を爲すは、
 大に時勢に通ぜざるの言なり」と、
議遂に合はずして脱黨するに至れるなりと云ふ。
其孰れか是なるか、將他に原因の存せしかを知らず。
尋で前島密、北畠治房も同時に脱黨し。

當時病床に在りし掌事小野梓は、
黨勢一變して遽かに回復すべからざるに至れるを見、
心深く其任を盡す能はざりしを愧ぢ、
自ら責を引て、左の辭表を提出せり。
 梓誤て掌事の任を擔ひ其職に居る
 既に三歳
 其間甚だ短なりとせず
 然るに菲才我黨に補ふ所なく
 其任を曠ふする既に久し
 幸にして未だ我黨の非責を蒙らずと雖も
 梓衷心竊に自から耻づる多ほし
 今や顧みて我黨の勢を看るに
 大に振策を加ふるべきの時至れるが如し
 然るに梓又不幸にして病に罹り
 自から出でゝ其間に周旋する能はず
 前既に曠職の罪を負ひ又重ぬるに此の病
 累閉居の事を以てす
 其我黨に負く甚だ大なり
 依て思ふに今後尚ほ其職を辱ふせば
 之を公にして我黨振策の機を失し
 之を私にして曠日彌久の譏を增さむ
 梓駑下と雖も亦た略ぼ事の輕重を知る
 伏して願くは一たび梓の職を解き
 更に健全活潑の人をして之に代らしめ
 大に我黨の面目を改めん事を
 梓其職を去ると雖も病軀の耐る所ならしめば
 固より將さに自から奮て我黨に盡すあらんとす
 噫梓や數々病累國に盡すの機を誤る
 誠に慨歎の至りに堪へざる也
 梓頓首謹表す
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年06月01日
鷗渡會(明治14年6月)立憲改進黨員名簿(明治15年6月)
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