商法講習所(一橋大学の前身)森島修太郎、成瀬隆蔵
[慶應義塾百年史:上巻]1958(昭和33年)

五七二頁
 それから、今日の一橋大学の前身にあたる商法講習所には
森島修太郎、成瀬隆蔵らがいちはやく教師となっているし、
のみならず、同校が明治七年(一八七四)森有礼の首唱により
わが国最初の商業学校として、
富田鉄之助らとの協力のもとに設立された際、
この商法講習所設立の趣意書を草して大いにその挙を賞揚したのは、
ほかならぬ福沢諭吉自身なのであった。
 (注)明治七年十一月一日付の同趣意書については、
    すでに『福沢諭吉伝』第二巻および
    『続福沢全集』第七巻等に掲載されて、 ※下記
    内容は容易に知ることができるが、
    昭和三十年五月篤志家西川考治郎の好意により、
    当時刊行のままの原本が
    内閣文庫に所蔵されていることがわかって、
    その写真をもそっくり恵贈をうけた。
    すなわち、それによると、一七・八×一一・九センチ
    本文七葉の活版刷和本で、
    表紙に「商学校ヲ建ルノ主意 附商法学校科目並要領」とあり、
    いままで知られていた前文のほかに講習所の教科目とか
    予算書までが付加されている。
    この原本はさらに森有礼旧蔵本を森有剛が所蔵していて、
    それは『図説日本文化史大系』第十一巻『明治時代』に
    写真が載っている。
    ※赤字部:令和4年(2022)3月8日 19:08 追記 小野一雄
 -略-
p572[慶應義塾百年史:上巻]1958
〔画像〕p572[慶應義塾百年史:上巻]1958

五七三頁
前記の成瀬隆蔵のごときは、
このとき義塾から同所に移った同講習所第一回の卒業生で、
結局そこにながく残って教頭を勤めたり、
商業教育につくすことになったものである。
p573[慶應義塾百年史:上巻]1958
〔画像〕p573[慶應義塾百年史:上巻]1958
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《森島修太郎》
【慶応義塾総覧. 明治41年】
   第十九章 卒業生   p80/123
安政五年本塾創立ヨリ
明治六年ニ至ルマデ未ダ卒業ノ制ナシト雖モ
其在學年限學力其他ノ廉ニヨリ
卒業生ト同視スベキ者
《森島修太郎》       p81/123

《成瀨隆藏》
【慶応義塾出身名流列伝】明治42年
《成瀨隆藏》  p248/536
 三井同族會書記長
 東京市麴町區元園町一ノ三七
 (安政三年生)
 -略-
 -略-
卽ち慶應義塾に入る、
時に明治八年なりき。
十年頃に森有禮氏等相圖りて
銀座の鯛味噌屋の二階を借て、
商業講習所を開設するに當り、
氏は塾を退いて同講習所に入り
十二年に同所を卒業す、
卒業後同所を主宰せし矢野二郎氏の周旋により助敎授となり、
十八年高等商業學校と改稱すると同時に、
卽ち同校助敎授として入り敎頭兼幹事を勤む。
 -略-

福沢諭吉『商法講習所設立趣意書』明治7年11月1日
【福沢全集. 続 第7巻】昭和九年
   商法講習所設立趣意書  p226-227/374
 人間の事務は内外公私の別あるより
其有樣を比較せざれば輕重を斷ずべからず
 -略-
 -略-
米國の商法學士ホウヰツニー氏
積年日本に來りて商法を敎へんとするの志あり
森有禮・富田鐵之助兩氏の知る人なり
東京其他の富商大賈各其分を盡して
資金を出すの志あらば
兩氏も亦周旋して其志を助け成すべし
 明治七年十一月一日  森 富田兩君の需に應じて
     福澤諭吉記す
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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