《小野義眞》三菱を代表して日本鐵道の副社長
【財界人物我観】福沢桃介著 昭和5年

【財界人物我観】福沢桃介著 昭和5年
 斯樣に三菱は、船で儲け石炭で儲け、
其他鐵道造船銀行で儲けて、
今日の巨富を作つたのだが、
錦上更に華を添へたのは、
岩崎の配下から多數の大人物を算出したことである。
事業はいくらでもある、
それに要する金はいくらでも出來る。
けれども人物はそう手取り早く出來るものではない。
事業の成功は一に人物、二に人物、三に人物といふ見地から、
岩崎が盛に人材を養成したからだ。
即ち、最初彼の麾下に馳せ參じた者は、
石川七財、川田小一郎の兩人であつた。
續いて莊田平五郎、
小野義眞、吉川泰次郎、近藤廉平、朝吹英二、
山脇正勝、二ツ橋元長、内田耕作、淺田正文、
末延道成、加藤高明といふ何れも一騎當千の面々だ。
 -略-
 岩崎は日本一の大富豪となり、
川田は日本銀行總裁として權威を恣にしたが、
獨り石川七財は不幸にも
明治十五年『コレラ』に罹つて頓死した。
爲めに生前榮冠を戴くことが出來なかつた。
けれども天は公平なもので、
その娘田鶴は末延道成に嫁し、
末延の財産は別として
その私産一千萬圓以上といはれてゐる。
女として、恐らく日本一の大金持だらう。
石川も亦地下に冥すべきか。
それから日本鐵道では、
三菱が十五銀行の華族の仲間に續いての大株主で、
小野義眞が三菱を代表して
日本鐵道の副社長になつたことがある。 ※下記:社長
昭和五年二月六日印刷
昭和五年三月一日發行
著作者 福澤 桃介
發行者 石山 賢吉
    東京市麴町區内幸町二丁目三番地
印刷者 脇坂 虎雄
    東京市麴町區内幸町二丁目三番地
印刷所 ダイヤモンド社
    東京市麴町區内幸町二丁目三番地
發行所 ダイヤモンド社
    東京市麴町區内幸町二丁目三番地
    振替口座東京二五九七六
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月08日
社長 小野義真[日本鉄道株式会社]【日本諸会社登記録】明治27年
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇