《勝田銀次郎》勝田汽船社長【財界楽屋新人と旧人】大正13年

【財界楽屋新人と旧人】大正13年
勝田汽船社長 勝田銀次郎  p127-128/165
 昔は一分間に何萬圓と儲けた彼
  今は貧乏して達者になつた彼
◇近頃さる男が、餘り肥りもしない勝田に遭つて
 「だいぶ肥りましたね」といつたら
 「貧乏すると達者になるわい」と笑つた、
 船成金一方の旗頭に推された
 多額納税議員勝田銀次郎が
 「貧乏」を口にする時代となつたのだから、
 一時飛ぶ鳥を落とした大成金の彼も
 槿花一朝の夢に興味を感じてゐるのであらう。
◇歐洲戰時強氣一天張りで鮮かな成功ぶりを見せ、
 又強氣一天張で美事還元された彼は
 「道樂や女で失敗つたのではない、
  船で儲けて船で損をしたのだ、
  顧みて何等疚しいことはなく
  思ひ殘すこともない」と、
 さる人に胸中を截ち割つて述懐したさうだ、
 彼の船舶主義は一本調子の強氣で成功もし失敗もしたが、
 子供を造ることに怠慢な彼は、近來政治趣味に復活し、
 段々政治道樂に没頭してゆく
 國民黨に五萬金を呉れてやつたのはその皮切りであつた。
◇明治六年松山で生れた彼は碧梧桐や虚子と同窓ださうだが、
 「海運」と「政治」で占領されてしまつた
 彼の胸中は文學を容れる餘地がない、
 「彼が本を讀むやうだつたら面白いがな」
 といつた男がある。
◇日淸役を終つた翌春、今の靑山學院を出た彼は
 「之からは貿易だ」と感じて、
 長崎で就職口が得られず、
 大阪に舞戻つて餘り人の知らない貿易商
 吉田利平商店に住込んだものだ、
 折角彼が目序傳をかきだした
 その吉田商店は失敗の揚句閉店したし、
 彼が明治三十三年に二百圓の端た金を握つて
 貧弱な勝田商會を起すまでには、
 神戸足立商會で十五圓許りの月給でコキ使はれ、
 苦い經驗をなめた。
◇其から大正元年に積年の望を達して
 一隻の船主(御代丸)となるまでには、
 日露戰に遭遇したのみならず、
 四十一、二年の海運大不況に揉まれ、
 この間北淸定期線を開いたり、
 浦鹽(ウラジオストク)に配船したり、
 農業獎勵の餘波をうけた
 大連豆粕の輸入をやつたりしてゐた、
 彼が莫逆の友として海運界きつての罵倒家
 上西龜之助を見出したのはこの間のことであつた、
 彼が古船一隻を以て船主の列に加はつた時の喜悦は、
 その後思ひがけぬ歐州戰爭に見舞はれて
 百萬長者から千萬長者に登りあがつた時に
 十倍したものであつたらしい。
◇彼は破裂した世界戰爭に悲觀が行渡つてゐた時、
 大正四年の準備として思ひきつて六隻をチヤーターした、
 之が幸運の芽をふいて四年には
 海福丸、永代丸、井手丸、興安丸の四隻を
 百十四萬圓で買とり、
 五年には海永丸、海祥丸の新造船を注文した、
 ところが更に久原の日本汽船が大阪鐵工所に注文した
 大型貨物船八隻六萬七千九百八十八噸を
 四千七百五十九萬千六百圓(噸七百圓)で買収して、
 さすがに肝ツ玉の膨れてゐた海運界をアツといはせた、
 今となつては之も夢物語りだが、
 彼が「一分間に何萬圓を儲けてゐる」と
 物好きに算盤を彈かせたのもこの時だつたツけ。
◇彼の骨組はやせてはゐるが、
 肝ツ玉はかなり据つてゐる、
 海運界の盛時肥大漢の上西龜之助が却て
 近海小型船主たることに滿足し、
 やせた彼が遠洋大型船主として
 突貫又突貫したのは面白いコントラストであつた。
◇彼の性行は直接的、進取的だ、隨つて單調子だ、
 術策と表裏とが尠い、
 かくと信じたことは容易に直言し斷行もする、
 彼が商賣上にもこの直線主義を改めなかつたことは、
 餘り策略がないと笑はれるが、
 自信をまげない勇氣は買つてやらねばなるまい、
 日本汽船との一束的大買船が、
 米鐵の輸出禁止で受渡が遲延したとき、
 慣例では破断の外ないのを船價改訂値で、
 全部受とりを承諾したのは、
 一片の侠氣に負ふ處とせられて居る。
◇彼は母校の靑山學院に約二十萬圓を寄附した、 ※別稿に記載
 貧乏だといはれる犬養木堂の政治的操守に共鳴して
 五萬圓をポケツトから攫みだした、
 苦學生に對する獎學資金だの、
 一萬二萬の端た口だのを合すると
 五十萬圓もなげだしたゞらうが、
 山下の如く内田の如く交換的ではない、
 木堂の貧乏黨に無條件の寄附をするよりは、
 政友會か憲政會を喜ばした方が實際的だと
 知らぬほど野暮でもあるまいが、
 彼には之ができないのである、
 たゞ或程度まで淸濁併呑の政治趣味に目醒めてきた彼が、
 直線的美質をどこまで維持し得るかは今後の問題である。
◇大正六年初めて神戸市會に出で、
 翌年貴族院議員に當選した、
 彼は「一年間かゝつたら政治の驅引が分つた」といつた、
 治政の形勢を彼はこの黨アレはこの派と算盤を彈き、
 其歸結を盤上に明示するの手腕は鮮やかものだ、
 勝田汽船は銀行のつツかい棒で、
 ヤツと支へられてゐるが、
 彼は今神戸市會議長として切廻してゐる、
 その市會に議長横暴の問題があつたとき、
 「議長はどこでも横暴だ」と笑つてゐたのは、
 彼の議長ぶりが貴族院における
 德川公の議長ぶりに接近してきたといふ
 會心の笑であつたかも知れぬ。
◇彼は踊りの二三手を知つて居る。
 雨しよぼは素人の域を摩するに十分。
大正十三年三月 七日印刷
大正十三年三月十五日發行  定價壹圓八拾錢
編纂者 平栗 要三
發行者 茅原  茂
    東京市本郷區弓町一ノ二五
印刷者 佐藤  磨
    東京市神田區松下町七
發行所 日本評論社
    東京市本郷區弓町一丁目二十五番地
    振替 東京九五七八番
    電話小石川一九七一番
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