大關彈右衞門 諱は增虎(看護婦 大関チカの父)
【下野勤皇列伝. 後篇】昭和19年
【下野勤皇列伝. 後篇】昭和19年
大關彈右衞門 p234/324
一、家 系
大關彈右衞門は、黑羽藩主增裕によつて、
見出されて家老となり、增裕の死に因つて職を退き、
恰も增裕の影をなしたやうな人物であつた。
彈右衞門は通稱で、諱は增虎、家世々黑羽藩に仕へた。
父を增博と云ふ。
增博は同藩士五月女昭方の二男であつたが、
大關治部左衞門增温の養嗣子となつて、
文政十年(1827)(紀元二四八七)彈右衞門を生んだ。
故に五月女氏とは親戚である。
彈右衞門の大關氏は、
もと藩主大關家から出たものであるが、
其の年代は明かでない。
始祖を参河守增宣と稱し、
那須郡小林村に住み、大關氏に仕へた。
家紋は藩主と同じく抱柊である。(諸臣系略)
其の後明治三年(1870)七月、
彈右衞門は、白川縣大屬に採用され、
もと執つた杵柄の勸業の事務を掌つたが、
病を獲て退き、明治九年(1876)五月永眠した。
年五十歳。
黑羽町西崖の先塋に葬つた。
四、贈 位
-略-
子孫は東京本郷弓町に榮えてゐる。
昭和十九年一月二十五日印刷 下野勤皇列傳 後篇
昭和十九年一月三十一日發行 【非賣品】
栃木縣敎育會編
代表者 瀧田 爲壽
印刷者 江俣 雅央
宇都宮市旭町二ノ三、四三三
印刷所(東栃一〇) 株式會社三共社印刷所
宇都宮市旭町二ノ三、四三三
發行所 栃木縣敎育會
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年08月12日
大關 衛:黑羽藩士 大關彈右衛門の長男
(看護婦 大関チカの弟)【野州名鑑】昭和6年
看護ネット 先人の看護の定義
《大關 和(おおぜき ちか)》
大関和は, 1858(安政5)年4月11日,
下野国黒羽(栃木県那須郡黒羽町)の国家老,
大関弾右衛門増虎とその妻テツの次女として生まれました。
明治維新の変革に際して、幼き頃から苦労し、
また親同士決めた結婚もうまくいかず
子供を連れて実家に戻ることとなりました。
-略-
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大関 増裕(おおぜき ますひろ)は、江戸時代末期の大名。
下野国黒羽藩15代藩主。
大関氏黒羽藩15代藩主 (1861年 - 1867年)
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