[大連懐かしの歌]大連市歌・大連行進曲・大連引揚げの歌:
秦 源治(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)
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[大連懐かしの歌]
秦 源治
(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)
大連市歌 p2/8
作詞 高野運太郎
作曲 石塚 寛
一、世界の平和護(まも)りつゝ
尊(たふと)き歴史こゝにあり
こゝ大連は満蒙の
さきがけの地よ譽(ほまれ)なれ
我等は市民
限りなき 幸(さち)をいのらん大大連の
二、東亞にほこる大埠頭
欧亞を結ぶ大鐵路
日に日に集(つど)ふ文明の 姿は
こゝに驗(しるし)あり
我等は市民手をとりて
ともに擧(こぞ)らんその道々に
三、櫻(さくら)は咲きて潔(いさぎ)よく
蘭花(らんか)はかをりとことはに
かゞやく盟(ちかひ)共榮の
はえある先驅(せんく)に起(た)つ我等
晴れたり空はおほらかに
大大連は力あふれて
新民謡 大連行進曲 p4-6/8
作詞・作曲者ともに不明 ※下記
作詞 秋山敏夫
作曲 古関裕而
一、烟(けむ)る陸橋(りくきょう)
あの日本橋
新京通(かよ)ひの
鐘が鳴る
狭霧(さぎり)降るのか
瞳(ひとみ)の中に
今日も日暮れて
灯(ひ)が揺れる
二、昔露西亜(ロシア)の
あの夢の跡
今じゃ戒克(ジャンク)の
影寂し
赤い小旗に
夕陽が映えて
風も涼しく
黄昏(たそが)れる
三、大連富士の
あの裾麗(すそふもと)
春は現(うつつ)の
星ヶ浦
櫻求めて
ドライヴすれば
自動車(くるま)の屋根に
花が散る
四、萌える若葉の
あの放射道
空も碧(みどり)に
氣もそゞろ
何處(どこ)に行こうか
大廣場(ひろば)の眞中(なか)で
華美(はで)な日傘が
立ち止まる
五、夜の大連
あの連鎖街(れんさがい)
シネマ歸りか
靴の音
ペーブメントに
ネオンが咲いて
行きつ戻りつ
夜も更(ふ)ける
六、豆油(とおゆ)豆粕(まめかす)
あの山埠頭
別れの唄の
銅鑼(どら)が鳴る
故國通(かよ)ひか
上海(シャンハイ)行きか
切れたテープは
泪色(なみだいろ)
大連引揚げの歌 p8/8
作詞・作曲 山下久
一、耳を澄ませばふるさとの
岸邊を洗ふ波の音
瞼(まぶた)の裏に浮かぶのは
あゝ遠近(おちこち)の山の色
船が来た来たなつかしい
祖國へ歸る船が来た
二、山の有様野の景色
昔のまゝにあるかしら
僕の生まれたあの町は
冬の月照る焼け野原
この眼で見よう戦争の
あとの祖國の苦しみを
三、民主大連船出して
民主日本へ水脈(みお)を曳く
歸る祖國の山川が
よし崩(くず)れても破れても
そこが我らの新天地
自由のための新天地
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大連行進曲 米倉俊英 コロムビア27113
2012/ 12/ 12
外地(満州)
〔画像〕blog_import_5d63cf484bd1b
ポーツマス条約後、日本がロシアから租借権を譲り受け、
昭和20年までの約40年間にわたって統治した
関東州の中心都市・大連の新民謡(地方歌、ご当地ソング)。
昭和7年11月日本コロムビア新譜。
大連市の地元紙・満州日報社が詞を募集し、
秋山敏夫という人の作品が選ばれた。
選定は満州日報社と作詞家・時雨音羽があたった。
作曲者は、まだ無名時代の古関裕而で、
仁木他喜雄が編曲を担当、
声楽歌手の米倉俊英の歌唱で吹き込まれた
(米倉はこのレコードが発売された翌年の昭和8年に、23歳で急逝)。
片面は、同じ満州日報の当選歌(時雨音羽選)の
『大連シャンソン』(新橋喜代三)である。
歌詞の中の「日本橋」というのは、
大連港の埠頭と大連市街地の間にある引き込み線を跨ぐ陸橋で、
人馬や自動車の往来が激しかったとの由。
「星ヶ浦」は大連近郊のリゾート地で、
海水浴場、ホテル、ゴルフ場などがあった。
5番の歌詞には、大連きっての繁華街「連鎖街」も登場する。
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2021年11月08日
[一少年の大連記憶]執筆:秦 源治
(大連常盤小、大連二中、南満工専卒)
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年01月17日
小川清久(叔父)から小野一雄へ
[大連:小川清秀邸の写真]平成4年6月
住所:大連市光風台53 (現)大連市西崗区民主街19
No.⑦
7[大連:小川清秀邸の写真]
⑦は二階のベランダから見た正面の景色です。
右側の山裾が静ヶ浦海水浴場、
左側の山裾が老虎灘(ロウ コタン)海水浴場で、
その間に島が二ツ見え、よい景色でした。
写真の両側に見える高い建物はすべて戦後の建物です。
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植鉄の旅
大連(9)
≪星ヶ浦≫の東に位置し、並び称されたのが≪老虎灘≫でした。
≪星ヶ浦≫よりも荒々しく男性的な景観をもつ場所のようですが、
「満洲の旅」(昭和15年 マンチュリア・デーリー・ニュース)によると、
その他に「星ヶ浦の国際的海水浴場なるに対し、
ここの【静ヶ浦】海水浴場は学童本位である」とあります。
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