《伊藤 醇・別府 醇》
 現主人、伊藤醇氏夫妻及び、母堂の說明
【長周游覧記】横山健堂・昭和5年

【長周游覧記】横山健堂・昭和5年
   四   p163-171/239
 幕末の下關には、國交の歷史、及び
新文化の發達の歷史の上に見のがす可らざる好記念がある。
それは春帆樓の直下にある阿彌陀寺町の伊藤醇氏である。
 伊藤氏は下關第一の舊家と稱せられ、
明治天皇始めての御西幸に、
行在所となされた光榮を有すほどの名家である。
行在所の建物は、後ちに養治小學校となり、
今は、解かれて殘つてゐない。
伊藤氏は、毛利氏が長州に入國する以前から此にゐたもので、
第二代の兄弟が分れて伊藤二家になり、
一は西端町にゐて、龜屋といひ、藥舗中の老舗であり、
先代伊藤房次郎氏は、下關市第一代の市長に推されたほどで、
數百年來、此の二家對峙して、家聲を維持し來たつたのである。
維新前、下關の大庄屋は、伊藤、佐古、藤田の三氏で、
その中で伊藤氏尤も古く、且つ今日に、
當年の面影を現存してゐるから、
維新前の下關を知るには、是非、
此の伊藤兩家は研究せねばならぬ。
わたくしは、現主人、伊藤醇氏夫妻及び、母堂の說明により、
出來るだけ同家の資料を研究したが、
杢之允氏の和蘭趣味は、餘程、深入してゐたものと思ふ。
 中津は福澤諭吉氏を出し、
吾が新文明史に一大貢獻をしたが、
福澤氏以前に、すでに早く、
かくの如き新文化に憧憬した先覺者の君主があつたことは、
併せて此に特筆せねばならぬ。
中津侯は、參觀交代の道中に、
伊藤家を定宿としてゐたので、
伊藤家と中津地方とは、淺からざる因緣を結んでゐた。
今の主人も母堂も、
みな豐前から此家に來た人であるのでも知られる。
昭和五年八月十七日印刷  長周游覽記
昭和五年八月二十日発行  定價二圓五拾錢
著作者 横山 健堂
發行者 岡村 千秋
    東京市小石川區茗荷谷町五十二番地
印刷者 三江堂印刷所
    高梨 知愛
    東京市神田區今川小路二丁目一番地
發行所 郷土研究社
    東京市小石川區茗荷谷町五十二番地
    振替東京二三九一七番
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年07月07日
[別府醇・伊藤醇]別府又十郎の四男:馬關の名門伊藤家を嗣ぐ
【豊前二市四郡人名辞書】
別府又十郎君 築上郡三毛門村 p128/166
三男醇氏は學を慶応義塾に修めて、
馬關の名門伊藤家を嗣ぎ。
[別府 醇・伊藤 醇]※三男とあるが、正しくは四男。
生 明治13年(1880)12月19日
歿 昭和45年(1970)04月04日
  明治42年(1909)05月17日
山口県下関市大字阿弥陀寺町第九拾参番屋敷
伊藤弥六 ト 婿養子 縁組届出
同日
長女ルイ ト 婿養子 婚姻届出
※ 上記、別府祐弘先生から
  (父 別府祐六:別府又十郎の六男)
  頂いた除籍謄本(原本のコピー)を基に作成。
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