[京都府立農牧學校]〔1/2〕明治9年11月
 蒲生野牧畜場記念碑文
【実業教育五十年史】昭和11年

【実業教育五十年史】昭和11年
   第二章 學制時代に於ける我京都府 p13/311
       實業敎育機關
 明治五年の學制に於ては農工商の實業學校は
中學校の一種として取扱はれ、
其内容に關しては何等規定する所が無かつた。
然るに翌六年の學制追加二編に於ては
之を專門學校の中に認め、
詳しく其の敎科を規定してゐる。
從つて當時の實業學校は今日の實業學校の如く、
高等、中等、初等等の種別は劃然と規程に依りて
分けられてはなかつたが、
大體其の敎科内容によつて區別することが出來る。
 當時代に於ける我が京都府に於ける
 斯種學校は極めて微々として
 僅に左に掲ぐる一校あるのみ

   京都府立農牧學校
 明治二年車駕東幸の後
京都府は人材の養成と産業の振興とを企圖し
先づ維新後の社會狀態の變遷に伴ひて
牛羊等の需要盛なるを察して
牧畜の獎勵に力を入れ、
殊に當時の知事槇村正直氏は頻りに西洋文化の輸入に努め、
明治五年二月、
現在の京都帝國大學附屬病院所在地に牧畜場を開き、
外國の良種を輸入飼育し在來の牛種の改良を圖り、
講習會を開き家畜飼養法を敎授せしめた、
次いで明治九年十一月
船井郡須知村蒲生野の原野を開いて
京都府立農牧學校を設立し
ゼームス・オースタイン・ウヰードを主任として
管内より三十名の自費生を募集し、
家畜の飼養と大農式農場經營を修めしめたのである。
これが京都府に於ける農業敎育の濫觴であり、
駒場農學校、札幌農學校等と共に
我國農業學校設立の先鞭をなすものであつた。
 然るに當時農學の進歩甚だ幼稚にして
未だ實業敎育を解する者尠く、
又當時の京都府の事情にも適しなかつたため
志望者も少なく僅に三年にして
癈止の止むなきに至つた事は
返すがへすも遺憾の極みである。
今尚ほ農牧學校跡として區劃整然たる敷地外濠、
井戸、冷藏庫歷然として存し、
且つ原野には丘陵畦跡の波狀に隆伏せる
當時の努力を追想するに足る。
而して此の學校の所在地は
歷史的に府下農業の先進地として
地方人を刺激する所尠くはなかつた。
加ふるに日露戰役後一般に實業敎育熱の勃興するや、
蒲生野開拓と地方文化の中心となるべき實業學校の設立とが、
地方民の熱烈なる要望となり、
明治四十一年四月
此の歷史ある學校跡に船井郡立實業學校が創立された、
これ現在の京都府立須知農林學校の前身である。
 時恰も實業敎育五十周年の劃期的盛典を迎ふるに際し、
農業敎育揺籃の聖地に現在斯道のために活躍しつゝある
京都府立須知農林學校が苦心調査研究を重ね
或は實地或は當時農牧學校に在勤して存命中の使丁、
牧夫を諸所に訪ねて未だ詳ならざるもの
或は跡あつて明かならざるもの等を正して
茲に整理考證された要點を記して本誌を飾る事にした。

   牧畜場記念文
    蒲生野牧畜場記念碑文に
 本場は京都牧畜場の一派にして
明治九年十月初めて出張所を丹波船井郡須知村金剛寺に置き
米國桑港より耕牛を購需し而して働作に馴練する
京都牧畜場産洋種牧牛を移し同郡蒲生野荒蕪地を開墾し
十年三月本場を茲に設け假農牧學校を立て
米國敎師ゼームス・オースタイン・ウヰードを聘し
生徒敎育を擔任せしむ、
十二年五月期滿ち雇を解き
p13【実業教育五十年史】昭和11年
〔画像〕p13【実業教育五十年史】昭和11年

悉く生徒を京都中學校に移し豫科學に從事せしむ。
 明治十三年庚申月 京都府知事 槇村正直の命を承け
          勸業課 明石博高 撰之
 以上記念碑は撰文既に成りたるも事故ありて
遂に建碑を見るに至らなかつたのである。
 之に由つて本校の設立は京都牧畜場の分場としての
農牧學校として一時は丹波地方勸農施設の一大光明なりしも、
當時に於ける歐米直輸入の大農場式農場經營の
實際的効果の有無に就ては僅かに三年足らずにして
之を放棄し癈校の運に遭遇せしことゝ見るに由なき次第である。
    一、當時の學校の位置
 京都府誌の錄する處によれば、
船井郡須知村蒲生野とあるも、
事實に徴すれば校地校舍の位置は
現在蒲生野豊田曾根の三字に跨り、
須知町、高原村境界附近
現本校農場附近を中心として
一大偉觀を呈したるものゝ如く思はる。
    二、建物の配置
 農牧學校の建物は山陰街道須知村蒲生
高原村豊田境界附近の西側にあつて、
間口一町、奥行二町に亘り、 ※一町=六〇間=109m
四方に濠を廻らし、
(前方は大濠にして一部分現存す)
壘を造り、 ※原本:疊
その上に生垣を配し、
東西北に各門あり、
一大城廓をなしたものゝ如し。
 學校正門は前述の位置に於て現存する外濠の内側にあり
粗末な角柱二本を以て造り門標を掲げなかつた。
校舎は城廓の中央に平屋建瓦葺のもの二棟、
前方は受付事務所、會議室、職員室に充てられた。
寄宿舎は北方に建築されて一人一室の制度らしく、
之に續いて調理室、小使室、職員官舎等の設備があつた。
寄宿舎に相對して南方にウヰード氏の官舎、
並に職員官舎等が設けられた。
特にウヰード官舎は御殿造にして當地方にて
見得べからざる建築であつたと傳へらる。
 乾草置場、農夫舎、農具舎は街道の西側外濠の前方にあり、
厩屋、飼料室、家畜病舎は街道の東側にありしものゝ如し。
(現在本校孟宗竹林地に當る)
   建物配置圖 ※〔画像〕参照
p14【実業教育五十年史】昭和11年
〔画像〕p14【実業教育五十年史】昭和11年
昭和十一年七月二十五日印刷
昭和十一年八月 一 日發行 【非賣品】
編輯者 靑木 助次
印刷者 長谷川 長
    京都市椹木町西洞院西入
實業敎育五十周年記念會京都支部
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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《続く》
[京都府立農牧學校]〔2/2〕明治9年11月
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