[京都府立農牧學校]〔2/2〕明治9年11月
主任講師 ゼームス・オースタイン・ウヰード
【実業教育五十年史】昭和11年
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年03月28日
[京都府立農牧學校]〔1/2〕明治9年11月
【実業教育五十年史】昭和11年
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【実業教育五十年史】昭和11年
三、組 織
修業年限三ケ年、年齢は一定せず、
創立當時は生徒約四十名入學し全部寄宿舎に収容し、
登校には必ず和服に袴を穿ち、威儀を正して授業を受く。
1、授業に就てはウヰードの農學の講義せるを
直ちに野見通譯によつて講義せらるたるも
生徒は非常なる困難を感じたと云ふことである。
2、授業は農學科敎授を主とし、間々實習を課す。
家畜の手入、農場整理等は殆ど
農夫、牧夫の手に依つて爲されたりと云ふ。
家畜として洋牛十八頭、雜種牛約八頭、
羊約五十頭、豚十頭位の飼育であつた。
四、職 員
主任講師 ゼームス・オースタイン・ウヰード
實習主任 一之瀨正男、金重、水島、大島、林某。
事務員 大中某。
農 夫 北村助三郎、田端才次郎、吉田甚吉。
小使兼牧夫 岡本房次郎、田垣辰之助(兩人共現存)。
(因に當時農夫、傭人日當は十五錢なり)
五、農園開墾狀况
創立當時の農場開墾は現在の松木牧場前竹林附近より始め、
本校射撃場南の山に及び、
順次現本校即ち豊田方面に及びたるものゝ如く、
その開墾方法は所謂米國式大農式開墾にして
洋牛八頭、十頭、十二頭を以て開墾し、
其の廻り方の掛聲はホーラント、シーラントと云ひ、
實に今日に於ても見得べからざる盛况なりといはる。
六、ウヰードの人物に就て
農牧學校開設當時のウヰードは大體四十歳前後の
堂々たる偉丈夫にして性磊落。
狩を好み、散歩の際にも獵犬二頭二連發銃を携へた。
水泳を試みて地方人を驚かし、
肉食を奇習として地方民の嫌忌甚だしく、
同氏食肉牛の屠殺場は現須知町々葬場に定められ、
今尚ほ牛墓地の名あり。
解職後は園部町常盤詰に寓居せりと傳ふるも
其後を知らない。
七、廢校の原因と其後の蒲生野
明治初年京都府が蒲生野高原に着眼し、
之が開拓と開發に力を致し
折角農牧學校の設置を見たりしも僅々三年に達せず、
明治十二年五月廢校の運命に逢着せしは
眞に日本農業敎育界の一大損失と云ふべし
惜しみても餘りありと云つてよい。
之が原因につき深く探究すれば、
1、歐米の大農式農法を直ちに我に輸入し、
之を不毛の地に應用せしため、
著しき成績を擧ぐることを得ざりしこと。
2、當時の民度尚ほ幼稚にして外國人を忌嫌ふこと深く、
地方人の無理解と言語風俗等の相違より
外人との接觸混融せざりしこと。
3、十年戰役のため濫發せられたる不換紙幣の整理に伴ひ、
諸物價の低落、農地の暴落、地主の破産等により
農界の人氣を粗喪せしめ、
之が影響尠からず事業の蹉跌の悲運に陥りたるものならん。
明治十二年五月ウヰードの事業蹉跌するや
畜牛全部の拂下げを受け
個人事業として之を繼續せし者ありたるも、
漸次衰運に傾き遂に癈絶した。
當時の農場、及校舎敷地等を地方人に拂下げたるも
適切なる利用の途なく
現今は當村各區の所有地となつてゐる。
須知農林學校々地を除く
蒲生野一帶の原野に畦跡の
今尚ほ波狀に歷然として轉た追懐深いものがある。
明治三十九年
農牧學校當時の農場(現在須知農林學校々地)に
本府種畜場を設置し、
約六町歩の牧草園と約十五町歩の放牧地を設け、
種畜牛約八十頭を飼養し、
豊富なる豫算のもとに大農式農場を經營せしも、
大正六年に癈止されて丹後筒川に移轉せられた。
種畜場所有の山林七町八反十一歩、
運動場四反五畝二十二歩、耕地五町六段八畝四歩、
建物二十三棟、乳牛七頭、製乳器其他備品を
郡立實業學校に無償交附せられた。
八、農牧學校とその遺物に就て
農牧學校癈止の聲傳はるや、
家畜、校地、建物、農具一切今日想像し難き安價を以て、
地方人に拂下げ、殆んど今日當時の遺物として見るべきものなし。
然るに種畜場を無償交付を受け經營せる本校に
他に見得べからざる大農式農具として
今日存するもの頗る多し。
參考のため本校所有の大農式農具を列記すれば左の如し。
カルチベーター サイス(小型用鎌)
開墾用(四頭立、三頭立)洋犂 ローラ
耕耡用犂 アタメホー
輪 車 二 ワーレンホー
ハ ロ - スツカツルホー
撒 播 器 ポテトホーク
シリクル (大型洋鎌)
九、農牧授業生徒規則
第一條 今や此所に農牧學校を造立するは外國の長を取り、
内國の短を補ひ
大いに日本農事舊面目を一洗せんとの大意なり。
故に敎育上に注意をするの責任を有し
生徒は黽勉するの義務を有する者とす。
若し其趣旨に背戻するあらば
校を退かしむるは勿論の事。
第二條 生徒の課業を大別して二とす。
一は現業技術、
一は學問講義を學ぶ者とす、
兼修偏修望に任す。
第三條 現業技術を三課とし一年半を以て卒業とし、
一課六ケ月にて其の業を終る者とすと雖も
敎授の緩急により相違あるべし。
第四條 一課業を終る毎に昇級の章を試與す。
三課現業、乳牛及製乳取扱法、睾丸斷截法、
並に羊毛の攝切法。
二課現業、土地開拓法、草穀播下法、収穫諸法、
培養諸法、寒暖晴雨測量等。
一課現業、培養及田畑の薄厚を鑑定すること、
農具用法を辯明すること、
家畜の良惡を鑑定し之を改正すること。
家畜の疾病あれば施藥治療すること。
學問講義も右順序に從ひ三種とす、
卒業の上證を與ふること前に同じ。
三課學問、牧畜の大意、乳牛論の大意。
二課學問、農學書、器械書、牧畜書。
一課學問、農業化學書、獸醫學書、水利學書。
右學術を卒業するには三年を以て限とす。
而して其の證表印六枚を所持する者は
普通學術を終る者と見做し
一課專門の學を受くべし。
第五條 生徒入學或は他管人は其地方の長官より添章を受く
萬事本人を引請くるに非ざれば入學を許さず。
第六條 管下の者は區長の奥書を以て入學願出づべし。
第七條 入學願濟の上は左の證を出すべし。(入學證略す)
第八條 疾病事故ありて缺席する時は届書差出すべし、
違者は秣草を収納すべし。
但し秣草は十貫目より少なからず
百貫目より多からず以下之に倣ふ。
第九條 年中休日左の通り
日曜日、天長節、神武天皇祭日
但し其外休業は臨時掲示すべし。
右の條々可相守若し不便の廉あらば衆議の上改正すべし。
九、其 他
ウヰード傭繼の事
京都簿第二百八十四號
外國人傭繼届
(但十一年より十二年傭繼届にして
明治六年五月雇入に關する古文書は未だ見當らず)
一、農牧講師
一、給料一ヶ月に付 日本金貨二百圓
一、傭繼期間 明治十一年卽ち洋曆千八百七十八年五月一日より
十二年卽ち洋曆千八百七十九年四月三十日迄
約一ヶ年
一、結約所 京都府下
一、住 所 京都府下丹波船井郡第三區蒲生野村
右先年當府勸業場へ
官費を不抑産業基立金之利益を以て
傭人置候處
今四月三十日滿期相成候に付
前書の通
傭繼致候間
免狀御渡相成候招致度
此段開申候也
明治十一年七月二十七日 京都府知事 槇村正直
外務卿 寺島宗則殿
京都府とウヰード氏との條約
大日本京都府と米利堅合衆國の産なる
ゼームス・オースタイン・ウヰード氏と條約。
第一條 ゼームス・オースタイン・ウヰード氏を農牧敎師として
京都府下に明治十一年則洋歷千八百七十八年第五月一日より
明治十二年則洋歷千八百七十九年第四月三十日迄
向ふ一ケ年間相傭候事。
第二絛 同氏雇中日本居室一宇可貸渡又
食料家具奴僕は一切同氏の自費たるべき事。
第三條 同氏給料は雇中一ケ月に付
貿易銀二百圓宛毎月末に相渡候事。
第四絛 諸規則傳習及時限等を定むる權は
知事大少書記官及掛長官に在るべき事。
第五絛 同氏農牧取扱に付議すべき事件は
都て決を掛り長官に取るべき事。
第六條 雇中一切商賣筋に關係不致事。
第七條 日本政府より定むる所の休日の外
同氏業を怠るときは其日數の給料を可取去事。
第八絛 雇滿期引續き雇入る時は期限前に其事を可相示事。
第九絛 雇期間中府廰傭を止むるときは期限中は給料を可相渡事。
第十條 同氏其職を遂げ兼るときは期限中と雖も雇を止め
其日より給料は不相渡事。
第十一條 雇期間中病に罹り一ケ月過ぐるときは
自費を以て代人を出すべし
三ケ月を經て猶癒ゆざるときは
其の日より此條約を癈し候事。
明治十五年五月一日
京都府知事 槇村正直
同大書記官 國重正文
同少書記官 谷口起考
米利堅人 ゼームス・オースタイン・ウヰード
(參考) 學制頒布
(明治五年八月二日太政官布告第二百十四號)
―略―
昭和十一年七月二十五日印刷
昭和十一年八月 一 日發行 【非賣品】
編輯者 靑木 助次
印刷者 長谷川 長
京都市椹木町西洞院西入
實業敎育五十周年記念會京都支部
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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