丹波の岩崎革也 塩田庄兵衛【近代京都のあゆみ】昭和61年(1986)
【近代京都のあゆみ】昭和61年(1986)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
京都民報社 編 (かもがわ出版, 1986)
12 府下最初の社会主義者 p49-52/181
丹波の岩崎革也 塩田庄兵衛
『平民新聞』に七百円ものカンパ
―略―
いかにも旧家らしいかまえの大邸宅の客間で、
数々の歴史的遺品を前に、
八十歳を越えられた
当主の岩崎平造氏と和子夫人から伺った思い出話や、
京都府議会事務局編
『京都府議会歴代議員録』などを手がかりに、
わたしがおぼろげながら描き出すことができた
岩崎革也というひとの経歴と人柄は、
あらましつぎのようなものである。
大地主で初代の須知町長
岩崎革也は、一八六九(明治二)年十二月二十一日、
岩崎藤三郎とくまの長男として、
当時の須知村に生まれた。
岩崎家は、領主亀山藩から苗字帯刀を許されていた旧家で、
代々酒造業を営み「絹屋」と号した。
父 藤三郎は養子であったが一代で巨富を築き、
一八九四(明治二十七)年には須知銀行を創設して頭取に就任し、
地方財界に重きをなしたが、
また政治にも関心をもち、
明治十五年大隈重信らの日本立憲政党に加盟した。
※大隈重信⇒板垣退助
立憲政党 総理:自由党副総理の中島信行
―略―
上京して社会主義運動と接触
これまでの岩崎茂三郎の経歴には、
もし関心を抱いていたとしても
おもて立って社会主義の影はみとめられないが、
その後新しい生活が展開する。
すなわち一九〇三(明治三十六)年四月、
子女を東京で教育するためという理由で、
一家をあげて上京し、
本籍も移して、
一九〇六年(明治39)まで主として東京に居住した。
その間一九〇三年(明治36)五月に、
名前を「革也」と改めた点に、
かれの思想状況がうかがわれる。
―略―
そして『平民新聞』の発行所である
―略―
そして『平民新聞』の発行所である
「平民社」を子供づれでたびたび訪れたことを、
当主の平造氏も記憶しておられる。
このような縁故からであろう、
のち一九一四年には、
福田英子の世話で、
長女きぬに社会運動家小野吉勝を婿養子に迎え、
分家を嗣がせた。
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2013年03月14日
[岩崎吉勝:岩崎革也 養子:希望社 經營 勤勞女學校 校長]
【早稲田大学紳士録】
―略―
『大逆事件』後も堺らに援助協力
―略―
このように革也は、
「大逆事件」後も
社会主義者にたいする援助・協力を惜しまず、
とくに堺利彦とは終生親交を結んだ。
徳田球一も寄宿
―略―
晩年は読書三昧にふけり、
太平洋戦争中の一九四三(昭和十八)年十月十三日、
七十五歳で死去した。
―略―
なお革也は秋月と号していたが、
はじめ秋水と号していたのを、
幸徳秋水の存在を知って、
秋月に改めたという伝説もある。
また中江兆民を尊敬して、
初孫に兆民と名づけた。
わたしが知りえた岩崎革也の生涯のあらましは
以上のようなものであるが、
さらに詳細をご存知の方の御教示をお願いする。
近代京都のあゆみ
1986年5月10日第1刷発行 定価1800円
編 者 京都民報社
発行者 田村 能史
〒601 京都市南区吉祥院石原上川原町21
発行所 株式会社 かもがわ出版
電話 075-661-5741/振替 京都1-12436
印刷・製本 新日本プロセス株式会社
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576224/178
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年06月21日
岩崎革也伝(岩崎茂三郎)京都府下で最初の社会主義者
【丹波風物誌】昭和57年(1982)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇