京都府官營「農牧學校」の顚末 京都學藝大學高原農場調
【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年(1950)
PDF:京都府官營「農牧學校」の顚末
【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年 [9頁]
【農業發達史調査會資料. 第26号】昭和25年(1950)
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(農業發達史調査會, 1950)
農業發達史調査會資料
第26號
京都府官營「農牧學校」の顚末
京都學藝大學高原農場調
(1) 緒 言 1頁
(2) 創立年月とその異説 1頁
(3) 學校の位置と建物の配置 3頁
(4) 學校組織と生徒規則 4頁
(5) ウイードの人柄について 6頁
(6) 廢校の原因とその後の蒲生野 9頁
(7) 農学校の遺物について 10頁
(8) 結 尾 11頁
昭和25年9月
農業發達史調査會
東京都北區西ケ原町
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/1
まえがき
本編は京都大学榎本教授の御厚意により、
明治初期に於ける有畜政策と農業教育の濫觴である
農牧学校に関する記録(京都学芸大学高原農場調)を
筆写したものである。
農牧学校については一般にしられていないが、
明治新政府が行った下総牧畜場、内藤新宿試験場等と
同時代に出現した全国中最初の地方的施設であり、
稀有なものであった。
この農牧学校は、当時の明治新政府の勧農製作の底を流れていた
大農論的思想を端的に現わしており、
それが設立後三年足らずで廃校の止むなきに至っていることは、
外国農業技術のプリミチーブな直輸入の挫折を示している。
本会では明治初期における、
外国農学ないし農業技術の影響の究明を志しているが、
その一資料として参考に供する次第である。
なお農牧学校について解説したものとしては、
津下剛著「近代日本農政史研究」(昭和十八年・光書房刊)がある。
昭和二十五年九月
農業発達史調査会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/2
目 次
(1) 緒 言 1
(2) 創立年月とその異説 1
(3) 學校の位置と建物の配置 3
(4) 學校組織と生徒規則 4
(5) ウイードの人柄について 6
(6) 廢校の原因とその後の蒲生野 9
(7) 農学校の遺物について 10
(8) 結 尾 11
(1) 緒 言
明治九年創立せられた京都府農牧学校は、
現在の駒場・札幌と共に
我国農業教育沿革史上不滅の足跡であるが、
僅か三年足らずして廃校せられた事と、
当時の史料文献の散逸とによって顧みられなくなり、
遂に農牧学校は名実共に斯界から没してしまったのである。
然るに近年実業教育の濫觴の一つであり、
又農業教育沿革史上重要なものとして注目して居る。
〔榎本註〕靑年師範で書いたので教育と云う事に偏している。
当時農牧学校の農場であった
由緒ある京都府立須知農林学校に奉職するものとして、
この尊い郷土の誇りを紹介する、
大口厚顔を辞せず京都府誌に散見せられるものと、
京都府文書課保存の古文書中に発見せられたものと、
現在存命の農牧学校当時の使丁 牧夫等について聽き正し、
整理考証したものを未完乍ら草することにした。
(2) 創立年月とその異説
―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/3
―略―
(3) 學校の位置と建物の配置
―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/4
―略―
(4) 學校組織と生徒規則
学校組織については、次の農牧学校授業生徒規則を見れば、
大体如何なるものであったかは十分伺われる。
其中特に注意すべきは科の分け方で
即ち現業技術と学問講義になっている事で
従って修業年限も現業技術の方は一ケ年半、
学問講義は三ケ年となって、
当時に於ては進歩したやり方の様に思われる。
職員組織
主任講師 ゼームス・オースタイン・ウイード
通 訳 野見織之助 ※能美織之助:下記
実習教員 一ノ瀨、金重、水島、大島、林
事 務 大中
農 夫 北村助三郎、田端才治郎、吉田甚吉(死亡)
小使兼農夫 岡本房次郎、田端辰之助(死亡)
授業については、
主任講師ウイードが原書を以って農学を講義すれば、
これを直ちに野見通訳によって訳されたりと伝えらる。
当時の生徒の語学による苦辛は想像以上であったと思われる。
因に生徒の林田弥寿夫氏は ※林田弥寿夫:下記
当時外人によりて
たゝきこまれたる発音に依って老年に至るも会話については、
靑少年に対し屢々注意せられたりという。
当時の開墾実習については所謂米国の大農式農具を用い
即ち洋牛八頭十頭十二頭を以て開墾し、
其の廻り方の掛声はホーラントシーラントと云い
実に今日に於て見得べからざる盛況なりしという。
当時の生徒は約四十名で
管内に於て相当勧農思想に意を用いた
裕福な家庭の子弟が大部分占めていたのである。
生徒は全部寄宿舎に収容し、
登校には、初め袴を穿ちたというも、
後には髪を分け、洋服を着し、靴を履き、登校したと伝えらる。
この点から見れば、
ウイードの感化を受けた事は勿論であるが、
当時この丹波にも早や
欧米文化が正に謳歌されつゝあった事が出来る。
農牧学校規則
―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/5
―略―
(5) ウイードの人柄について
明治十一年から十二年にかゝる
外国人傭継届の古文書から考えて見ると
ウイードが農牧学校の主任として赴任したのは
四十八才の男盛りであった。
当時の農牧学校の小使兼農夫であった
故田端辰之助氏の談に依れば
堂々たる体躯と非常な磊落な性格の持主で
趣味としては狩獵で常に洋犬を連れ
二連発銃を肩にして散歩し
特に鳥射には実に妙を得ていたと云われている。
満期解職後は船井郡園部町常盤橋詰に寓居して居た
と伝えられているが
これは地方人の口伝に依るもので
信ずるに足らないものである。
因にウイードの蒲生野に着任するや地方人は
ウイードの肉食するを奇として且之を悪嫌い した為、
ウイードの食用牛の屠殺場を現須知町町葬場に定めたという。
これ地方人が牛墓場と伝うる所以である。
ウイードは農牧学校主任講師として奉職中の一ケ月の給料は
日本金貨二百円であったことは、
今日から見て当時の雇人一日の給料十五錢に比し
(当時米一升八錢)
外国人に対して如何に優遇していたか窺われる。
ウイードの傭継の事
京都簿第二百八十四号
外国人傭継届
米利堅人 ヂエームス・オースタイン・ウイード
当 寅五十才
一 農牧教師
一 給 料 一ケ月ニ付 日本金貨二百円
一 雇継期間 明治十一年即洋暦千八百七十八年五月一日ヨリ
十二年即チ洋暦千八百七十九年四月三十日迄
約一ケ年
一 結約所 京都府下
一 住 所 京都府下丹波船井郡第三区蒲生野村
―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/6
京都府ト ウイード氏トノ條約
―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/7
(6) 廃校の原因とその後の蒲生野
―略―
(7) 農学校の遺物について
―略―
(8) 結 尾
―略―
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/8
裏表紙
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2530586/9
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