立憲改進党結成と小野梓[憲政史を歩く]
【国会画報. 36(1)】平成6年(1994)

【国会画報. 36(1)】平成6年(1994)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
(麹町出版, 1994-01)  
【国会画報. 36(1)】平成6年(1994)p1
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連載 [憲政史を歩く] <69>  p33/35
 股肱<東京・宿毛>
 立憲改進党結成と小野梓

 明治十四年政変で筆頭参議大隈重信は失脚し、
大隈の影響下にあった農商務卿河野敏鎌、
駅逓総監前島密も免官された。

 政変の遠因となった大隈の「国会開設建言書」を起稿した
太政官大書記官矢野文雄(龍渓)をはじめ、
統計院の尾崎行雄・犬養毅、
外務省の中上川彦次郎・小松原英太郎、
農商務省の牟田口元学・中野武営、
文部省の島田三郎、
会計検査院一等検査官小野梓(東洋)ら、
前途有為の青年官僚が、
ことごとく政府を追われた。

 「大隈に因縁ある者、官途に隻影を留めざるに至る」と
指原安三が「明治政史」に記したように、
大隈系と見做される者は、
薩長閥によって徹底的に掃討され尽してしまう。

 政府は、急進的国会開設論を唱える大隈を追放し、
高まる自由民権運動には、
国会開設の時期を明示したことで抑制の実をあげ、
一息をいれた形であった。

 しかし、民権派を牛耳り、
活発な言論活動を展開している板垣退助に加えて、
有能な人材に恵まれた大隈を野に放ったことで、
新たな脅威が生じた。
政府は、民権諸派と大隈派の動向に神経を尖らせ、
警察の監視を強め、
多数の密偵を大隈周辺に放つ。

 順風満帆の航海を続けていた大隈にとって
この逆境は思いもよらぬことであった。

 政府転覆の野望などあろうはずもなく、
その挫折が、自らの勢威を過信し、
日本的問題解決の手法「根回し」を怠ったことに
発することすら気付かぬ甘さなのである。

 このダメージから再起を図った大隈は、
官を離れた有能のブレーンを用い、
着々とカムバックへの布石を固めた。

 危機的状況の中で、
大隈を支えたのは小野梓である。
小野について大隈は、
「学問の造詣が深く、経綸の才略があり、
 何事かなす場合我輩一策を立てれば、
 直ちに之に骨を継ぎ足し肉をつけて形を整え、
 其案は我輩の考え得る以上であった」
(大隈侯昔日譚)と絶賛している。

 「小野なくして立憲改進党の創設、
 東京専門学校(後の早稲田大学)の創立は難しかった」
とまで言われた小野梓は、
土佐藩重職の安東家の家士小野節吉の次子として、
嘉永二年(※嘉永五年)、
高知西南の宿毛に生れた。
幼少の頃は読書嫌いで遊びほうけ、
日がな居眠りをしていたと伝えられ、
多くの秀才のような神童説はない。
ところが、十三歳に達したとき、
一念発起して忽ち頭角を現し、
家中第一の俊才になったのだから、
やはり伝説的人物であった。

 師は酒井南嶺
京で和漢の学を修めて帰郷し、
子弟の育成に努めた。
尊王攘夷の風が吹き荒れる幕末、
南嶺は国際的な視野をもち、
「世界の中の日本人」を強調している。
宿毛という四国でも僻遠の地に
このような碩学がいたことが小野に幸いした。

 維新後、明治三年頃から七年にかけ
小野は中国・西欧に留学、
法律・財政学に精励した。

 帰朝のあと、
遠縁の小野義真の妹利遠(りお)を娶り、
義兄となった義真の紹介で大隈と会った。
大隈は、梓の明敏・誠実・実行力など、
優れた素質を直ちに見抜き、
自らの羽翼にしようと官界入りを奨めた。

 明治九年、二十五歳の小野は司法省に入り、
十三年、大隈の建議によって創設された会計検査院に転じ、
一等検査官に昇ったが、政変の余波で官を去った。

 退官後、名声を慕って集まった東京大学の
高田早苗、市島謙吉ら俊英と「鷗渡会」を結成して、
最新の法律・政治の論を研鑽しつつ、
新政党組織・政策綱領づくりに腐心した。

 鷗渡会の名は、小野の住む隅田川畔の橋場に近く
「鷗の渡し」があったことから付けられたが、
いま一つ、執拗につきまとう政府の密偵に、
風雅の集まりと見せる狙いもあったという。

 小野の手で新政党組織の準備が進められる中、
同じく大隈傘下の矢野龍渓を主軸とする
「東洋議政会」も犬養・尾崎を擁して、
大隈が手中に収めた郵便報知新聞を通じ、
英国型議会政治思想を鼓吹していた。

また、新政党第三の柱となる
「嚶鳴社」は、沼間守一、河野敏鎌らが演説活動を行い、
沼間は「横浜毎日新聞」を発刊、
主筆に島田三郎を据えて盛んに啓蒙活動を展開した。

 すでに、板垣は自由党を発足させていた。
大隈を核とする新政党の結成は急がねばならなかった。

 十四年暮、小野は「何以結党」を執筆する。
要約すると、
「主義を明示すること、
 新聞を用いて天下に主義(主張)を知らしめる、
 党結束のため党内の嫉妬心を減殺すべきこと、
 品行を正しくすべし、
 地方の人心を得るため人を各地に派せ、
 中等人(一般的市民)の嘱望を得よ」などで、
小野は十五年二月半ば、
この骨子を盛り込んだ「改進党宣言」を起草し、
大隈、矢野、高田らの意見を叩いたのち成案とした。

 準備成って、明治十五年四月十六日、
立憲改進党は発会式を行った。

 当日は曇天だったが、
会場となった京橋の明治会堂には、
陸続として党員が参集、
三時過ぎ開会した。

 河野(敏)が立って党総理に大隈を推したいと述べ、
前島(密)が賛成演説を行う。
全員同意のあと、
万雷の拍手を受けて大隈が受諾の弁を述べる。
河野が
「閣下が今、衆の請を容れ総理を諾したるは国家の大幸」
と祝辞を弁じ、
最後に大隈が掌事(幹事)を指名してセレモニーを終えた。
あと、茶菓で小パーティーがあって散会する。
鵜の目鷹の目の密偵に怪しまれるような演説もなく、
至極平穏な発会式であった。

 改進党は、発足直後は大隈の雉子橋邸そば、
飯田町一丁目七番地に仮事務所を設けたが、
二ケ月後の六月二十七日、
神田中猿楽町五番地二号に移った。
有楽町に転じたのは更にのちのことである。

 筆頭掌事(幹事長)となった小野梓に多忙の日が続く。
党務をさばき、地方遊説にも精力的に参加した。
支持者との面会は、時に夜半に及んだが、
嫌な顔を見せることがなかった。

 早朝、手洗いに入り一時間余を過ごすが、
これは、同行していた箕浦勝人の話では
「其日の段取りは、便所の中で練り順序立ててしまい、
 其の通り活動する。
 その勉励と気力には驚嘆の外ない」
ということであった。

 党務をこなし、
東京専門学校の創立に尽粋した小野は、
明治十六年から畢生の大著「国憲汎論」を上梓したが、
この頃より宿痾が悪化し、
待ち望んでいた国会開設の日をまたず、
明治十九年一月、
三十五歳の若さで長逝した。

 梓を愛してやまなかった大隈は
「我輩は、両腕を取られたより悲しく思った」と、
その死を嘆いた。

【国会画報. 36(1)】平成6年(1994)p33-1
〔画像〕【国会画報. 36(1)】平成6年(1994)p33-1

「待花」小野梓が明治15年に作った
 国会開設を待望する詩
【国会画報. 36(1)】平成6年(1994)p33-2
〔画像〕【国会画報. 36(1)】平成6年(1994)p33-2
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2022年03月21日
《小野梓》總理大臣を夢みる【日本英雄伝. 第2巻】昭和11年

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2021年08月04日
《小野梓》明治14年の政変:
局面展開の策を籌(めぐ)らしたる時、内閣諸公を評して
【森有礼と星亨】大正7年
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2018年05月06日04:28
カテゴリ◆東京宿毛会 [東京すくも人]第2号1985年版
[東京すくも人]第2号:
《小野梓先生を知るために》兵頭武郎
偶然にも私は梓先生が、
三歳から十七歳で宿毛を離れるまで住まわれた、
宿毛市真丁二六一九番地に生れ育ち、
しかも先生が創立に尽力された早稲田に学び、
『明治政府への小野梓の提言』を卒論に卒業することができたので、
梓先生は私にとって近親感と尊敬に充ちた大先輩である。
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