明治の三大農学校の一つ 京都農牧学校跡(丹波町)
【丹波風物誌】昭和57年(1982)

【丹波風物誌】昭和57年(1982)
国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
湯浅貞夫 著 (文理閣, 1982)  

 明治の三大農学校の一つ
   京都農牧学校跡(丹波町)

 夕立がサーッと通り過ぎていった。
ポプラの喬木が太陽に光っている。
池には水蓮の丸い葉が、いっぱいに浮かんでいる。
白樺の幹を切って二本足にした金属板には
「京都府農牧学校跡」とかかれている。
これは、京都府知事であった蜷川虎三氏の筆になるものである。
 明治九年(一八七六)、政府から派遣された
京都府知事・槇村正直は、
京都の鴨河東(今の京大病院)に農牧場をつくった。
そしてホルスタイン種などの洋牛を飼い、
西洋式農業の技術をとり入れた。
その後、この牧場は、広大な丹波高原の、
須知・蒲生野に移転した。
 古いチョンマゲを切り落としたばかりのこの地方に、
新式の洋式農業を伝講する京都農牧学校が建った。
 初代の教師は、
米国人のジェームズ・オースチン・ウイドーであった。
畜産、農芸化学、水利、農機具などが教授され
集まった学生たちは、機械を使う新式農業に驚いた。
 ちょうどその頃、日本には三大農学校が創立された。
東京駒場農学校、
そして「ボーイズ・ビー・アンビシャス」で有名な
札幌農学校、
更に須知の京都農牧学校である。
 その後、駒場は、第一高等学校から東大教養部に。
札幌は北海道大学農学部となった。
須知の蒲生野は、
須知農学校から今の須知高等学校となった。
 濃い酸性土壌とひどい水不足、
さらに交通難で、この地方の開発がおくれた。
それの解決のため、
京大の大工原銀太郎博士が土壌改良を行った。
そして蜷川知事の時には国道九号線や、
あとにのこされた課題は、水資源である。
 今、須知高等学校には、ウイドー時代の
「カルチベーター」や「ハロー」など、
百年の歴史をもつ記念すべき農機具が
立派に保存されているのである。
[写真]水蓮の花さく、京都農牧学校の跡
【丹波風物誌】昭和57年(1982)p36
〔画像〕【丹波風物誌】昭和57年(1982)p36
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576135/36
著者紹介
湯浅貞夫
一九二八年 京都府園部町で生れる
現在 日本共産党京都府委員
   衆議院議員 寺前いわお事務所事務長
主著 『歴史の群像』『いばらの道』
住所 京都府船井郡日吉町字下保野田
   TEL 〇七七一七(二)〇一四六
丹波風物詩
1982年11月30日発行   ¥1,200.
著 者  湯浅 貞夫
発行者  黒川美富子
発行所  図書出版 文理閣
 京都市下京区七条河原町西南角
 TEL 075(351)7553
 ISBN4-89259-056-8
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576135/88
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、
1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 –
 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、
日本の農学者(農芸化学)。勲等は勲二等。
学位は農学博士(1911年)。
旧姓は鈴木(すずき)。
農事試験場技師、特許局技師、九州帝国大学農学部教授、
九州帝国大学総長、同志社大学総長などを歴任した。

酸性土壌改良の恩人、「ダイクハラ酸度」で有名な大工原銀太郎

京丹波ウイードの森
京都府農牧学校資料館
平成29年12月9日
京都府立須知高校の一室を改装し、
農牧学校時代の資料等を集めた資料館が開館
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇