川田義雄とミルク・ブラザース「明朗五人男」
【東宝映画. 5(2)(52)】昭和15年8月  

【東宝映画. 5(2)(52)】昭和15年8月
 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
(東宝映画社, 1940-08)  
【東宝映画. 5(2)(52)】p1
〔画像〕【東宝映画. 5(2)(52)】p1
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4421189/1

   明朗五人男
吉本興業    (役 名)
 横山エンタツ 横山 達吉
 花菱アチヤコ 藤木 德三
 柳家三龜松  伊東 鶴夫
 川田義雄   河田 郁治
 柳家金語樓  山下 敬太
  (順不同)
 椿 澄枝
 淸川 虹子
 淸川 玉枝
 音羽久米子
 永井柳太郎
 三田 國夫
 エノケン一座
  武智 豐子
 吉本興業
  千歳家今男
  ミス・ヴアジニア
 ミルク・ブラザース
  頭山  光
  有木 三多
  岡村 龍雄
 杉浦エノスケ

構成・山本嘉次郎
   (浪六原作”當世五人男“より)
脚色・小國 英雄
演出・齋藤寅次郎
撮影・友成 達雄
録音・宮崎 正信
音樂・松平 信博
装置・北  辰雄
製作・瀧村 和男
【東宝映画. 5(2)(52)】p3
〔画像〕【東宝映画. 5(2)(52)】p3
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4421189/3

  川田義雄  p27/33
「明朗五人男」で神戸ロケに行きました。
神戸は南京虫が甚(ひど)いといふことは
兼ねてから知つてゐましたし、
連日の強行撮影でヘトヘトのところへ
南京虫に迄目茶苦茶に喰われたら
明日からもう軀がもたんと思ひましたから、
豫(あらかじ)め相談して神戸驛に着くとすぐ、
寅さん      ※演出・齋藤寅次郎
キヤメラの友成氏 ※撮影・友成 達雄
それから僕と三人で、雲隱れした。
そのまゝ車で某ホテルに乘り着け
其處で泊つてしまつた譯です。
後で聞くと他の連中は、
空と地上との猛攻撃つまり
南京虫と蚊の總攻撃に遇つて
往生したといふ話で
僕達は大いにうらまれました。
 今度の撮影は實に猛烈で仕事以外に暇は何もありません。
何處へ行つても撮影のことが頭にこびりついてゐる。
その筈です。
エンタツ、アチヤコ、金語樓、三龜松その他、
今男、エノスケ――さん達、
僕より高座でも映畫でも先輩格の人が
づらりと顔を並べてゐる。
うつかり出來ません。
何ごとも他のことは考へず仕事に沒頭しました。

「明朗五人男」には相變らず、
僕のミルク・ブラザースが出演(で)てゐます。
五人男が皆明治時代の流行歌を唄ふ。
ミルクは今度はホンのおつき合ひで、
その伴奏をしてくれるのですが、
仲々一生懸命にやつてくれる。

 統率者としての僕は人間としても
一個のアーチストとしても
勿論完璧であらう筈はないのだが、
皆不平も不滿もいはず
よくついて來てくれます。
皆が僕といふ人間をよく理解してくれてゐるからですが、
頭山光と有木三多はバンド・マスターをしてゐた。
そんな地位を投げて僕のところへ來てくれた。
非常に感謝してゐる譯です。
僕もよく無理をいひます。
だが、皆苦い顔もせず、よくやつてくれる。
それは二人ともそんな地位にゐて、
人を使ひなれてゐる。
使ふ人間の氣持も、使はれるものゝ氣持も、
よく知つてゐるからのことだと尊敬に堪えない次第です。
岡村龍雄は實弟ですから文句はありません。

 泳ぎは好きですが餘りうまくありません。
この間嵐山で泳いでぶよに喰はれました。
皮膚が弱いんですね。
未だにあとがなくならず、
夜ぽりぽりかくんで益々擴がる模樣なので困りました。
 海國日本なんて大きなことは
さて遠慮しても健康と趣味からでも
もつと泳ぎがうまくなりたいと思ふんだが
生れつき下手でその素質がないんですが
どうもうまくなれない。
尤も仕事だつて相當にいそがしいんで暇もないが。
それでゐて山もこの細い軀で上手でないと來てゐるんでね
少し恥ずかしい。
唄をうたふ時には相當につゞく心臓が山登りをすると
息ぎれするといふのは
醫學上どう説明してもらへるのか聞きたいね。
【東宝映画. 5(2)(52)】p27
〔画像〕【東宝映画. 5(2)(52)】p27
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4421189/27

東寶映畫 八月下旬號
 毎月二回(一日十五日)發行
 第五巻 第二號
 通 巻 五二號
     定 價
一部   廿錢(送料一錢五厘)
半ケ年分 二圓二十錢(送料共)
一ケ年分 四圓參拾錢(送料共)
 御註文はなるべく
 (振替東京一八三四三)を御利用下さい。
 切手の際は勝手ながら二割增にてお願ひ致します。
 廣告掲載御希望の方は御一報下さい
 社員參上致します。
昭和十五年八月十五日發行
編輯兼發行人印刷人 中村脩吉
東京市小石川區久堅町一〇八
印刷所 共同印刷株式會社
東京市京橋區銀座七丁目一番地
發行所 東寶映畫社
 振替口座 東京 一八三四三
 電話 銀座 五九〇一(十)
停   定價 廿錢
【東宝映画. 5(2)(52)】p30
〔画像〕【東宝映画. 5(2)(52)】p30
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4421189/30
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[YouTube]
川田義雄とミルク・ブラザース / 地球の上に朝が来る
7分15秒
川田義雄とミルク・ブラザース  地球の上に朝が来る
〔画像〕川田義雄とミルク・ブラザース  地球の上に朝が来る
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)、
本名、岡村 郁二郎、1907年3月15日 - 1957年6月21日)は、
昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアン。
いわゆるボーイズものの創始者である。
灘康次を始め、多くの弟子を育てたことでも知られる。
また、美空ひばりの「師匠」または「芸能界の育ての親」としても、
近年、再評価が為されている。
戦前は主に吉本興業(東京吉本)所属。
 ―略―
その間、人気絶頂だったあきれたぼういずに目を付けた
新興キネマ演芸部は、
1939年、吉本からの引抜を画策する。
破格の条件での引き抜き[2]であったが、 
川田は吉本幹部の林弘高の媒酌により
吉本ショウの劇団員であった
桜文子と結婚したばかりという義理もあった
(新聞では「吉本子飼いの芸人」と表現されている)[3]。
結局、川田を除く3人のメンバーが新興に移籍。
「あきれたぼういず」は事実上解散となり、
川田は新たに実弟の岡村龍雄、頭山光、菅井太郎
(後に有木三多[4]と交代)らと
新生グループ「川田義雄とミルク・ブラザース」
(ミルス・ブラザース(英語版)のもじりであり[5]、
乳兄弟の洒落でもある)を結成し、引き続き吉本で活躍していく。
このミルク・ブラザース時代にレコード化された
「地球の上に朝が来る」は川田のテーマソングとして、
生涯オープニングテーマとして歌い続けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇