《坂本恭啓》ホテル東園は日通の手に
【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
【旬刊通運 15(20)(441)】昭和37年(1962)
出版者 交通出版社
出版年月日 1962-07
近畿管見
ホテル東園は日通の手に p21-22/51
―社長追出しから社長製造の工程—
▼建物の一寸見は豪華な感じ
食堂でウエートレスが差出すメニューを開いてみると、
なる程値段は一流並、
これで従業員の客扱サービスも至れりつくせりなら、
良いところだと大いに宣伝もしたいところ。
実は左に非ずと書かねばならないのが気毒でもある。
うちは一流並だから―と、
ボーイもウエートレスも、
それでツンと澄ましているのなら、
も一度出直して来いと言いたい。
兎に角、『値は一流サービス二流』と
悪口を言われたらサービス稼業はお仕舞だ。
残念ながらホテル東園がそういうことになりかねない。
読者先刻御承知の通り、
日通が胸ふくらませて観光事業に手を染めてから
何番目かに投資したのがこの東園。
良い儲け口だと飛びついて一億円以上の金を注ぎ込んだ、
夫れは株式発行総数の五五%に当るそうだが、
どうも会社内部がごたごたしていて
夫れが商売をお留守にさせているとの噂も聞く。
▼尤も開業して未だ半年やそこらで
日通本社がお望み通りの黒字が出ないのは当然だし、
ホテル稼業に素人ばかりの日通派遣重役に、
これを叱るのは酷である。
何とか経営がよくなるように―と暗中模索の形で、
時にもたつきが見えるのも無理からぬところだ―と
同情的に言う人もある。
人の和があれば素人は素人なりのサービスの良さもある、
それが出て来ないのは
矢張り重役間の和が欠けているからだろう。
それは坂本恭啓という、
これまでに日通とは何ら縁故もない人が社長で、
その事業家らしい筋の濃いワンマン振りが、
日通の如き序列と役職、
先任後任の明瞭りした枠内で育つたものと、
うまく調和がとれないのも当り前のこと。
だから日通派が坂本社長に手を焼いて
商売そつちのけにして
善後策ばかり考え込んで、
何とか社長を追出し経営を日通の手に収めたいと
気をもんでいる恰好に見える。
もともと日通の狙いはそこにある。
副社長に朝鮮帰りの筋金一本通した大川正雄と
常務として経理に明るい向井健次郎を入れている。
対手がごねれば此方も考えがあるぞ―と
押す度胸充分な駒の進め方だ。
然し坂本社長にしてみれば、
元はこの土地で電機器具の工場をやつていた、
戦後それが思わしく行かないので
観光京都で成功を夢見てホテル建設を思い立ち、
財産を注ぎ込んで建設にかゝつたのが五年前、
だが資金的に行き詰り、
八方資本家を物色していたところ
旧友で日東金属鉱山の社長たる松本万里氏が、
日通に話してやろうと持込んだわけ、
松本氏は藤山愛一郎氏の系列下にあり、
元日通にも居たことがあるという人。
これで日通との話ができて昨年一月着工、
十二月に竣工して
本年一月下旬に開業した東園である。
※昭和37年(1962)1月下旬
▼日通と松本氏との話合いがどうなつていたか、
坂本氏と松本氏との話が
どういうことになつていたかは知る由もない。
一方は、金を出したから経営をまかせろ―という気だし、
一方は、金を出して貰つたが経営は飽く迄
此方がやるのだ―と言う気だろう。
斯うなると話も追々きたなくなつてくる、
ホテルの什器類が世間の相場より帳簿価格が高いとか、
おんぼろ外車のライトバンを、
社長の紹介で高買したとか、
等々そうした声が表面に現れてくるのも
内容がしつくり行かないからだ。
こんな話は開業を前に昨年のクリスマスパーテイの時に、
既に日通人がレセプシヨンホールで
囁き合つていたのを耳にしたものだ。
投資したからには経営を
自己の手に掌握しようとするのは資本家の常である、
その点日通も例外ではないが、
日通はえてして焦り気味で、
会社乗取り手段は下手糞だ。
某電鉄の如きは、
あの会社を、あの事業を―
目ツこを入れたら先づ系列会社の名で融資にかゝる、
更に金を欲しがれば気前よく出してやる、
この時から役員を派遣して経理だけは見るようにする、
そして一年二年はぢつと様子を視ていて、
ぢわぢわ会社内部に足を入れ、手を入れして
実権を奪うような戦法である。
あせらず、騒がず、ものにして仕舞うところ、
あざやかなものだと感心させられる。
然し日通は焦り気味で事をかゝるから
手口を見すかされ、時に逃げられもする。
その実例は又後ほど別項にゆづるとしておく。
▼さて坂本社長に東園から手を退いて貰おうという
重役会が五月下旬に開かれることになつた、
そして後任社長には大阪トヨペツトの専務吉田逸郎という
異色ある人物を据える用意もして、
坂本社長が非常勤の取締役会長になることを承知すれば、
その席で吉田新社長の就任挨拶ができるようにと、
吉田はその日京都支店で待機していた。
然しこの日、
取締役会長の松本万里氏が出席しなかつたので流会となり、
改めて六月に入つて役員会が開かれ、
遂に坂本社長の退陣が決定、
会長は依然松本氏。
社長に吉田逸郎も予定通り決定。
またおまけに日通関西地方駐在専務
保志平内氏も取締役に入つたとか。
さて坂本社長を追放するかのような仕打が
妥当であるか何うかは茲には述べない。
日通としては最初から目論見ていたことが、
算盤通りにいつたと一
https://dl.ndl.go.jp/pid/3555001/1/21
応万歳ものである。
だが、重役の人事である、
副社長の大川正雄は本社で総務部長、
秘書役を経て中部地方事務所長で定年、
引つづき常勤参与で現職に在つたが、
東園の開業を前にして入つた、
また向井健次郎常務は地方監査部長、
総括主管支店次長などして
大阪では近来の名総務担当次長と讃えられ、
東園入りで惜しまれた人物。
その上へ今度は吉田逸郎を社長に据えたのである、
吉田は大阪では堺、淀川支店長から
総括主管店次長、奈良主管支店長を経て
この春の人事異動で大阪トヨペツトへ転出、
まだ三月にもならない。
人目には栄転のように見えるが
本人は余り気乗りがしないようだ。
吉田は運送屋の子
(旧高田倉庫運送、大和通運社長吉田辰蔵氏の長男)で
中学を卒業すると名古屋の牧野運送で見習奉公を二年、
仕事を身につけて帰郷し、
家業に携つたという生れつきの運送営業マンである。
▼なるほど吉田は商売人だ、
対手次第で腰も低くする、
ものゝ言い方は上の人に対しては実に上手である、
だが、黒いタキシードを着て蝶ネクタイをむすび
『いらつしやいませ』とお辞儀をする
ホテルのマネーヂヤーには、ちと何うかと思う。
東園が素人揃いのサービスを売物にしてゆくのなら、
これも又異色あつてよかろう。
東山の一角にそびえ立つ東園、
この半年間は灰色のそれも沈んだ色で映えなかつた。
だが内部のごたごたも漸くおさまりついたのは結構である。
蛇足を加えるが―これで吉田逸郎という、
凡そ場違いの人物を社長に御指定したのが、
福島敏行社長だというのだから
又何かそこに魂胆があるのだろう。
思いつき、出たら目、場当り主義、
無定見、出たとこ勝負、
この何づれもが当るような世にも不思議な人事である。
(六・一三シの字)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3555001/1/22
旬刊通運 第十五巻 第二十号
昭和卅七年七月一日印刷
昭和卅七年七月十日発行
編集兼発行人 清水啓次郎
印刷人 鍋田 久吉
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印刷所 雄文社
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