《伊賀とら・伊賀おとら》
[下山京子]變装記
【一葉草紙】大正3年
【一葉草紙】大正3年(1914)
著者 下山京子 著
出版者 玄黄社
出版年月日 大正3
變装記 p85-87/187
フランスの或雜誌に、
婦人記者の花賣りに化装した
面白い記事があるといつて、
或人から聞きました。
『私に一度、此の變装といふものをさして下さい』
私は或に編輯長の、高見さんにかう云ひました。
『それはまだ日本では、
それぞといふことをしたものもないから、
面白いかもしれませんね』
と、云ふので、私は俄かに旅立の用意をして、
名古屋に小間物行商にゆく事になりました。
それは私が入社した年の秋で、
十八の年でした。
飛行船に乗つて見たらといふ人もあり、
『尾行者をつけて、世界を一人で旅行したらどうだらう』
と、福澤さんまでが此時は言葉を入れました。
さうかうする中仕度も充分に調(とゝの)ひましたので、
すつかり田舎娘
に變装した私は、
母と一緒に名古屋に出張して、
或る知邊(しるべ)の家にそつと宿(とま)りました。
そして靑い大風呂敷に包んだ、
三越から仕入れた小間物の
五貫目近い荷物を背負つた時は馬鹿々々しいとも、
悲しいとも、
何んともつかない嫌な心持がして、
今更ら私は何だつて
こんな眞似をしたからうかしらと
さへ思ひました。
おかしい事には、
その知合の家でも事の眞相をしりませんので、
若い田舎出の夫婦が、
『まあ、お嬢さんも何だつて、
そんな氣におなりでした。
まだお嫁入り前のからだをねエ』
と、しみじみ母の同情したさうでした。
當時の變装行商記事にも書いたかしりませんが、
あの名妓金吾でしられた金波樓へ賣りに行つた時なぞ、
私の小間物の荷の周圍を取かこんだ新造や
大勢の花魁連中が、
私をつかまへて口々に、
『あんたも、そんな事をして重い荷を負ふて歩くより、
かう云ふところで女郎(つとめ)た方が
樂でお金になりますよ』
と、云はれたのは、
泌々(しみじみ)女の弱さと
敢果(はか)なさの心に強い針を打つた。
生涯々々忘れられない、
冷たい淋しい感じのする言葉でした。
それから後、私はまた兵庫の花壇に、
仲居の下の通ひと云ふ役目で住込みました。
これは僅か三日間でしたが、
記事は凡三十四五回もつづきましたらうか。
ベースボールの《伊賀おとら》さんに、
今のように深い仲となつたのも、その時からでした。
惡(あく)たれだ、強情で、憎い程智恵のある、
皮肉で、天狗で、飽きぽくつて、
喧嘩早い、お寅さんは、
幾(いくら)ガラガラ、
雷のやうに怒(どな)り散らしても、
私の顔を見ると急に男が女に
早變りしたやうに、
弱い私の云ふことを、
『左樣か、左樣か』と、
大人しく聞いて呉れると云ふ妙な女です。
ずぬけた惡黨には、
また凡人以上の純な處もあるし、
潔白な部分もあると私はいつもさう思つて、
此の人を見てゐます。
私がどうかして、人に負けた話でもすると、
お寅さんは、我ことのやうに靑筋を出して、
『ほんまに憎らしいやつぢやな、
其(そ)樣(な)いな奴の家へは、
二階へ二十貫もあるやうな、
大けな大けな大石を擔(かつ)ぎ込んで、
座敷へおつ投(ぽ)つて來てやりまほ、
あんたみたいな意氣地(いくじ)なしは、
ほんまにあかんな、
私なら、ウント虐めたるし』
と、心から怒氣を滿たして口惜しがります。
《お寅さん》の大石の敵討ちや看板下しの惡戯は、
神戸時代から有名なもので、
随分その憂目に遇つた人もあるそうですが、
それでゐてされた方でも、
お寅さんを憎む程腹を立たないと云ふことです。
《お寅さん》は時々私の花壇の變装當時の話をして、
『あんたが大阪へ去(い)なはつてから
家へ來る藝妓たちの話が、
ほんまに面白おましたつせ、
お君さん(私の變名)
後日(ごじつ)物譚(ものがたり)の方が
反へつて奇抜なことも、
極端なことも多(おお)うおまつせ』
と、幾度もその話を繰返しました。
私が神戸の花壇を歸つてから、
あつちの花柳界では、誰いふとなく
こんな流行唄(はやりうた)が座敷に流行して、
私が褄を端折つて逃出しゆく眞似(まね)をする
振まで附いたさうでした。
『お君さん、
好きで仲居をするのぢやないが、
新聞材料のしかたなし、
僅か三日のね、
苦勞して、
後は野となれ山となれ。』
大正三年一月十七日印刷 一葉草紙
大正三年一月二十日發行 正價九十錢
著 者 下山 京子
發行者 鶴田 久作
東京市神田區雉子町三十二番地
印刷者 中島藤太郎
東京市神田區錦町三丁目一番地
印刷所 神田印刷所
東京市神田區錦町三丁目一番地
發行所 玄 黄 社
東京市神田區雉子町三十二番地
電話本局 二〇九番
振替東京七九九五番
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