《新橋の名結髪師 伊賀トラ女史》
中川トラ女史 佐世保市元町
【諸道大観 長崎県版】昭和12年

【諸道大観 長崎県版】昭和12年
出版者   諸道大観社
出版年月日 昭和12
  中川トラ女史  佐世保市元町
 美 容
女性の美くしさを發揮さすには
麗質に磨きをかけ
整容に技巧を加へて
更に一段の光りを添へなければならぬが、
况して職業人としては顧客の個性を見究め、
其の個性を生かして
理容の目的を達せねばならぬので、
徒に形式にのみ拘泥するを許さず、
故に外見は極めて容易な業のやうに思へるが、
事實は非常に苦心を要し
滿足に仕上げるには大きな困難が伴ふ、
其の困難を克服して
女性群の信用を博して居るのが
中川美容院である。

院主トラ女は
香川縣三豊郡觀音寺町三好藤太氏の二女で
明治五年十月九日出生、
少女時代を北松浦郡相浦町で送るうち
手先が器用で髪結ひが好きで
自分の髪は固より、
友達の髪を結ひ、
家族の髪結ひを
一手に引受けて自然に上手になり、
近所の甲乙の髪を結つてやつたりして
獨り樂しんで居るうちにメツメツと腕を上げ、
遂に勸められて髪結の看板を揚げ、
獨習で技術を練つて
鮮かな腕の冴えを現はして居たが、

(明治)三十七年の當時
軍港第一流の旅館油屋に番頭をして居た
中川德松氏と結婚し、
夫君の勤務關係から
(明治)三十八年佐世保市に移り
現所に開業したのである。
日露戰役を境として佐世保は市勢の發展目覺ましく、
東京はじめ各地よりの來住者多く、
時勢の進運につれて
女性の好尚にも變化を來したので
此の環境の中に在つて
自己流で押し通すことは不利益だと考へ、

(明治)四十五年上京して
新橋の名結髪師伊賀トラ女史について修業し、
歸來伊賀流の結髮で好評を得たが、

女史の旺盛な研究心は年と共に益々度を加へ、
爾來昭和八年までに
前後十四回上京して研究を重ね、
又滯京中銀座の理容館遠藤はつ子女史について、
美顔術、着付等を修業し、
結髪理顔等美容に關する新
流行新傾向を研究して剰す所なく、

既に齡は還曆を過ぎたが、
燃ゆるが如き研究心が
新しいものを求めて
止まぬ努力は精神は
何時までも若さを失はず、

長女德子女史も母の指導を受ける外
遠藤女史について修業をかさね、
佐世保新舊兩檢番の意氣向きをはじめ
全市に院名を弘め、
上流家庭の結婚着付けに手腕を讃へられて居る。

既に養成した門生は十名に上り、
久留米、大村、武雄より來りて敎を請ふ者さへあり、

毎年勅題始め新流行は
其都度遠藤・伊賀兩師より
書面指導の聯絡があり、
同業者間に重きをなして
組合長も四期重任して居り。

往年遠藤女史が震災に遭ひ九死に一生を得た時、
衣類並に附屬品を取揃へて急送し
師の難を救ふた隱れた美行があり、
業界の德望を集めて居る。

夫君は明治六年三月三日福山市草戸町生れ、
明治四十年來町内組長を勤め、
妻女の關係から佐世保の髪結組合の事務を擔當し、
警察關係の交渉其の他會務を取扱つて居る。
p29【諸道大観 長崎県版】昭和12年
〔画像〕p29【諸道大観 長崎県版】昭和12年
   宅島モリ女史 長崎市東小島町
 結 髪
   溝田チク女史 長崎市西中町
 結 髪
昭和十一年十二月二十九日印刷
昭和十二年 一月  五日發行 非賣品
編輯兼發行人 荒木 武雄
       長崎市西琴平町二十五番地
印刷人    中川 俊二
       長崎市外浦町七番地
印刷所    中川印刷所
       長崎市外浦町七番地
發行所    諸道大觀社
       長崎市西琴平町二十五番地
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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