《疎開:昭和20年8月5日須知農林学校》
新香里病院院長(大阪府) 岡田 弘
【日本病院会雑誌 = 44(8)】平成9年(1997-08)
【日本病院会雑誌 =
Journal of Japan Hospital Association
銷夏随筆特集44(8)】
出版者 日本病院会
出版年月日 1997-08
〔画像〕p1【日本病院会雑誌 = 44(8)】1997-08
終戦前後のこと
国家公務員共済組合連合会
新香里病院院長(大阪府) 岡田 弘
第二次世界大戦も末期となった昭和20年春、
わが国も遅まきながら将来の軍事科学者の養成が
必要ということになり、
京都市で特別科学教育学級の生徒の
選抜試験が行なわれた。
【日本理科教育史】1968
著者 板倉聖宣 著
出版者 第一法規出版
出版年月日 1968
昭和19年(1944)12月26日
文部省、「特別科学教育研究実施要綱」を発表。
(翌年1月から、
京都帝国大学および各高等師範学校で
中学生・国民学校上級生の少数英才教育を始める)
〔画像〕p246【日本理科教育史】1968
https://dl.ndl.go.jp/pid/3043870/1/246
幸いそれに合格した私は、
京都師範学校男子部付属国民学校6年の
特別学級で勉強することになった。
近畿一円から集まった1クラス22人である。
前年から本土空襲が始まっていて、
警戒警報が発令されると直ちに防空頭巾を被って
下校するという日々の連続であった。
東京、名古屋、大阪等の大都市は空襲で焼かれ、
京都だけが奇跡的に被害を受けずに残っていた。
しかし京都も必ず爆撃されると予想され、
学童は続々と田舎へ疎開をしていた。
最後まで市内に残っていた私たちのクラスも
8月5日朝、
特別学級4年生、5年生の下級2クラスとともに、
父母に見送られて
京都駅から山陰線で疎開先へ出発した。
皆揃って教育を受けるために、
縁故疎開は認められなかった。
京都府船井郡の須知農林学校(現・農業学校)内の
養蚕室が私たちの宿舎であった。
正午過ぎに国鉄下山駅で降りて、
「歩調とれっ!」の号令で元気よく
行進して校門を入った。
よく晴れた大変暑い日であった。
農林学校の生徒さんたちが迎えてくれ、
対面式が行なわれた。
また農林学校長のご好意で、
夕飯は赤飯のご馳走であった。
翌8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
私たちがそれを聞いたのは、
ソ連の参戦のニュースとともに
8月10日頃の朝礼であった。
夜は灯火管制のために黒い布で覆った
僅かなあかりの下で、
4、5人ずつ集まり自習をした。
消灯は午後9時であるが、
希望する者には、
以後も別室で学習が許可された。
8月15日正午から
天皇陛下の重大放送があるとのことで、
一同和室に正座して正面のラジオに聞き入った。
どなたの記憶にもあるように、
雑音が多くて良く聞き取れなかった。
しかし、不審だったのはその日の午後の授業がなく、
先生方が一切無口でただならぬ態度、
表情であることだった。
翌朝、日本は戦争に負けたのだと聞かされ、
徹底抗戦をしようと近くの藪から青竹を切ってきて、
めいめいの竹槍を作ったりした。
この事はずっと後の父兄会で、
科学教育の特別学級なのに
何と野蛮な振舞いであったかと、
担任の先生が糾弾される羽目になった。
この疎開地一帯は「蒲生(こもの)が原」という、
すすきの多い高原地帯であった。
農林学校に接して海軍の演習地があり、
時々カーキ色の戦闘服をきた
兵隊さんを見かけることがあった。
8月16日夕食後、校内の通り抜け道を歩いていると、
向こうから片手に40センチくらいの鯉をぶらさげ、
他の手にずっしりとした袋をぶらさげた
兵隊さんに出会った。
私がいつものとおり「こんにちは」と挨拶をすると、
兵隊さんは酒に酔った真っ赤な顔を向けて
https://dl.ndl.go.jp/pid/2831977/1/27
「君は何年生か」ときく。
「6年生です」と答えると
「これから君らががんばれ、
俺たちはもうだめだ、
砂糖をやろうか、容れものをだせ」という。
空の弁当箱をもっていたので、
渡すと袋の中からがっぽりと
ザラメの砂糖をすくって入れてくれた。
お礼をいって寮にとんで帰り友達と分けて嘗め、
とても嬉しかった。
その夜、海軍の演習地の方角に
何十発かの照明弾があかあかと打ち上げられた。
やがて日本がポツダム宣言を受諾したこと、
敵が新たに残虐なる爆弾を使用したのは
原子爆弾であること、
戦艦大和が沖縄特攻に出撃し、
何十発もの爆弾と魚雷の攻撃にあい
沈没したことなどが、
我々生徒にも知らされた。
また植物学の指導に来られた京大の先生からは、
調査に行かれた広島の惨状をお聞きした。
担任の先生らは、
敗戦のショックからどうやら落ち着き、
終戦の勅語にある
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」、
わが国は苦難の道を歩まねばならないと
諭されるようになった。
以後私は辛いことがあると、
いつもこの名句を思い出すことにしている。
嬉しかったのは灯火管制がなくなり、
夜も部屋が明るくなったことである。
また警報がなく、
自由時間には胴乱や野冊を携えて、
※胴乱:植物標本収集用の
ブリキ製肩掛けかばんの通称。
※野冊:野外で採集した植物を挟んで
持ち歩くための用具。
野山に好きな植物採集に行けることであった。
すすきの根元には、
今では珍しいナンバンギセルが自生していた。
秋の夕暮れには、
ウスバカゲロウという
とんぼによく似た昆虫が大発生して飛び交い、
壮観であった。
この年の秋は雨が長く激しく続いた。
それである先生は
「何時まで続くこの雨で、
三日二夜はとめどなく、
なお降り止まぬ秋の雨」
という軍歌「討匪行」の替え歌を作られた。
汽車の割当が大変難しかったのと、
占領軍の様子を見るためもあったのか、
私たちはなかなか京都市に帰してもらえなかった。
それで連絡のため本校に行かれた先生から、
京都の様子を聞いた。
二条城の前の広い道を滑走路にして、
米軍の小型飛行機が発着していること、
円山公園に入る階段道をジープが駆けのぼるなどの
土産話には大変驚いた。
結局11月中旬頃に、
待ちに待ったわが家に帰ることができた。
その後も特別学級の教育は続き、
リンゴの歌の流行っていた翌昭和21年春に、
付属小学校を卒業し、
旧制最後の京都府立第一中学校の
特別学級に無試験で進学した。
この時期に早や微分積分などを教えられ、
私の京大進学への基礎学力となった。
ところが中学3年の春、
この学級は解散となり一般学級に編入、
ついでに地域制となったため、
小学校からの同級生はバラバラになってしまった。
最後に科学特別学級の生徒は果して科学者になったか?
必ずしもそうではないが、
皆各界の指導者として活躍している。
医師は私を含めて22人中3人
(ほかの2人は東大医卒)である。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2831977/1/28
図書館・個人送信資料利用可 ログイン中【小野一雄】
【 】『国立国会図書館デジタルコレクション』
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伊丹十三Wikipedia
1940年末の父の東宝退社に伴い、
1941年、京都市上京区(現・北区)小山北大野町に転居、
京都師範男子部附属国民学校
(現・京都教育大学附属京都小学校)に転校。
1944年、同校の特別科学教育学級に編入される。
この学級では、
戦時中としては例外的な早期英語教育を受ける。
級友に湯川秀樹の長男湯川春洋や、
貝塚茂樹の長男で経済学者の貝塚啓明、
日本画家の上村淳之がいる。