《松村守一邸の会見》原 邦道(大和銀行相談役)
【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)

【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)
著者    西山記念事業会 編
出版者   西山記念事業会
出版年月日 1967
  松村守一邸の会見  p68-70/336
    原 邦道(はら・くにみち)
    大和銀行相談役
    明治二十三年(1890)生
    島根県出身
昭和二十五年(1950)
初秋のころと記憶しますが、
当時私は追放中で
西宮市南郷町に蟄居中でありました。

ある日、
松村守一氏から、
相談したいことがあるから
来てくれとの電話がありました。

松村守一氏は同郷の先輩で義理の叔父にあたり、
神戸高商卒業後第一銀行に就職し、
神戸支店長から川崎重工業の役員に転出して
長年川重の経営に当たった人であります。

私は魚崎の松村守一宅へまいりましたところ、
でっぷり肥った紳士が同席され、
松村守一氏は初対面の私に紹介されました。

この人が西山弥太郎さんでありました。

かねて新聞雑誌等で伝えられました
西山さんは非常な活動家で精力的であり、
実行型のたくましいお人だと思っていましたが、
実に物柔らかな、
愛嬌たっぷりで人を引きつける魅力が充満した
好紳士だというのが私の第一印象でありました。

相談というのは
川鉄千葉製鉄所に関することでしたので、
まず西山さんは一通り新製鉄所計画の輪郭と
雄大な千葉製鉄所の未来図について説明され、
ついで松村守一氏から
所要資金の調達について
相談をうけました。

その後
私はいろいろ工夫し
奔走もいたしましたが
微力のいたすところ、
ついにうまく参りませんでした。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2975004/1/68

時が移り諸般の情勢もやや好転しました
二十八年(1953)ごろには西山構想も
クローズ・アップされ、
第一銀行も全面的に金融の裏づけを
決定されました。

また長期資金の供給を使命として発足しました
日本長期信用銀行も酒井頭取の
お指図に従って協力いたしました。

かつて神戸の松村守一邸で
西山さんとの初対面を思いだしまして、
当時の願望が実を結んだことを
喜んだ次第であります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2975004/1/70

昭和二十九年(1954)一月
川崎製鉄株式会社の指定商社
青山特殊鋼株式会社、
新庄鋼材株式会社、
摩耶興業株式会社は合併して
川鉄商事株式会社を設立し、
元川崎重工業株式会社
専務取締役
松村守一が社長に就任した。
西山はその創立総会に出席し、
祝辞を述べ
毛利元就の三本の矢の故事をひいて
社内の結束、
販売部門の強化を訴えた。
p313【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)
〔画像〕p313【西山弥太郎追悼集】昭和42年(1967)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2975004/1/313
西山弥太郎追悼集
■発行・責任者
 昭和四十二年八月十日
 西山記念事業会・藤本一郎
 神戸市葺合区北本町通一丁目一番地
 川崎製鉄株式会社内
■制作・印刷
 株式会社経済雑誌ダイヤモンド社
 東京都千代田区霞が関一丁目四番二
 非売品
https://dl.ndl.go.jp/pid/2975004/1/333
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blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2012年03月02日15:35
《松村守一》松村仙造(真澄)の実弟―03
《松村守一》三男
明治17年(1884)12月13日生
昭和41年(1966)[83歳]歿
《松村 ヒサ(久子)》
明治26年(1893)3月24日生
《松村仙造》二男
明治13年(1880)7月19日生
昭和3年(1928)3月3日[48歳]歿

blog[小野一雄のルーツ]改訂版
2016年10月23日04:34
《松村守一》【人材・島根:県人名鑑】昭和13年
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