【佐土原町史】1982.2
出版者 佐土原町
出版年月日 1982.2
2 外国留学
藩知事忠寛は維新以来多くの功績があり、
内外に通ずる識見の持主であったから、
今一歩考えを進めて外国文化をと、
外国留学に踏み切った。
明治二年七月廿三日、
島津又之進、平山太郎、橋口宗議、
三人の亜米利加留学(明治二年より同四年まで)
願いを出して許可された。
これに武之進の弟、 ※又之進
丸岡武郎が加えられ四名となった。
これは維新の功による賞典米三万石
(実質は四分の一、七千五百石)の
下賜による余裕からという。
島津又之進 年 弐拾壱歳 ※島津忠寛の長男
丸岡 武郎 年 拾九歳 ※島津忠寛の二男
※大村純雄
平山 太郎 同 弐拾壱歳
橋口 宗議 同 弐拾歳
右者亜米利加國江 政事学為修業三ケ年差遣申度
則御当地開成所御雇教師ウエルベッキ之書翰ヲ以
於彼地相応ノ人江 相附修業仕筈ニ御座候
一 自分賄ヲ以 壱ケ年八百ドル位之目当ニ御座候
一 入費差送り方之儀ハ、横浜為替問屋江
金払入於彼地為替手形請取筈ニ御座候
一 入費ハ藩知事ヨリ差出申候
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774223/1/169
右之通御座候間、何卒御許容被成下、
則御印章御渡被下候様、奉願之候 以上
九月十九日 佐土原藩 片岡 新
外務省御役所
右之通願出候処、御印章四枚御規則書四冊、
松本幸太郎殿ヨリ、御渡シ相成候付、
片岡新 相受取帰候事
御印章とは旅券のことであろう。
明治二年九月二十八日、
留学生は横浜から出発した。
ついで次の年の八月二十八日、
第二陣が出発した。
この二陣も賞典米による余裕からという。
町田啓次郎十三歳、 ※島津忠寛の三男
日高次郎二十六歳、
三浦十郎二十七歳、
木脇良二十三歳の四人、
後の三名は啓次郎のお付を兼ねていたと思われる。
啓次郎の留学については、
彼の師勝海舟が忠寛に強く勧めて実現したという。
当時外国に留学したものは、
日向国内で一〇名、
その八名が佐土原藩士であった。
江戸期の佐土原藩では、
学習館の成績優秀な者は、
江戸や大坂に学問稽古に遊学させる慣例があったが、
大平洋をこえたアメリカまでの考えは
大変な進歩である。
宗藩である鹿児島の例に刺激された事も
大きかったと思われる。
そして自分の後継者である男の子全部を手離して、
様子のよくわからぬ外国に留学させたのは、
藩政改革にかける忠寛の意気込みの一端を
物語るものではないだろうか。
イ アメリカで
又之進一行はハワイ経由サンフランシスコに向った。
彼が国元に送った手紙によると
小生一たび日本を離れ四千里余の大海を越え、
又数千里の鉄道を蒸気車にて、
わずかに数日を経て
メリケンの大都会ニューヨークに達す。
実に飛矢の如く又、
道には多くの電信機を掛け、
あたかも蜘蛛の如し、
千万里の遠きを一時に達し、
其の軽便驚きにたえず
はじめて接したアメリカ文明社会は、
彼等にとって驚天動地の想いであったろう。
さらに続けて、
僕等四人始めには、
ニューブロンスウィッキと申処へ滞留致候得共、
三、四ケ月以前に僕、平山とは、
ボストンと申処ヘ引移り勉強致居候、
新渡留学生友人はニューヘブンと申処ヘ滞留致候、
ニューヘブン当地を去ること凡そ百三、四十里、
ニューブロンスウィッキ当地を去ること
殆ど二百五、六十里なりと雖も、
蒸気車、蒸気船、日夜往来するを以往還自在なり
ニューブロンスウィッキの米国留学生姓名
岩倉公子 朝日小太郎
同 龍 小次郎
薩 松浦 弘蔵
同 折田 権蔵
長 山本 十介
同 服部 一三
駿 勝 小鹿
同 高木 三郎
佐土原 丸岡 武郎
佐土原 橋口 宗議
ボストン
肥後 林 玄介
同 津田亀太郎
筑前 平賀儀三郎
同 本間
薩 吉田 彦麿
長 児玉周一郎
佐土原 僕(島津又之進)と 平山
ウースタ
筑後 山田
筑前 井上六三郎
ミールストン
駿 富田鉄之助
アナポリス
薩 松村 淳蔵
肥後 伊勢佐太郎
ニューヘブン
薩 大原令之介
佐土原 町田啓次郎 ※島津啓次郎
同 児玉 章吉(日高次郎)
薩 湯地治右衛門
ミドルタウン
薩 永井五百介
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774223/1/170
〇外に薩人両人地名忘る。
〇宮様連中ブルクリンに御滞留と承候得共分明ならず。
〇右の外朝廷の印章なしに出候人も少々有之由
以上は又之進が恩師籾木熊男先生に
あてた手紙から拾ってみた。
三浦十郎と木脇良の名前がないのは、
すでにドイツに渡ったあとだったからであろう。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9774223/1/171
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